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2013年8月 5日 (月)

神経質礼賛 932.七夕の願い(2)

 私が住んでいる街では七夕は月遅れの8月7日である。神社には近くの幼稚園児が書いた短冊を吊るした竹が並ぶ。七夕飾りで商店街も明るい雰囲気になる。


 
 浜松医大に勤務していた頃、病棟内に七夕飾りを作るのは森田療法を受けている患者さんたちだった。入院患者さん全員に短冊を書いてもらい、デイルーム(食堂)に立てた竹に吊るす。ナースステーションの窓には毎月、白・赤・黄・緑・青の5色のスノースプレー(クリスマスの頃、商店のショーウインドウなどの飾りに用いられるスプレー:季節商品なので普段は入手困難であり、各色のスプレーを切らさないように在庫管理するのも神経質な私の仕事の一つだった)を使って絵を吹き付けていて、この時期は必ず七夕をテーマにしたものだった。

 当時の大原健士郎教授はいつも患者さんが書いた短冊をよく読まれていた。やはり「病気が治りますように」「健康になれますように」といった内容が多かった。回診の時には「あなたはどんな願いを書いたの?」と患者さんに尋ねておられた。「健康になりたい」という患者さんにはさらに「健康になって何がしたいんだね」とさらに聞かれるのが常だった。大原先生が好んで用いられた言葉に「人間、生きる目標があれば、たいていの苦難に耐えることができる」というニーチェの言葉があった。「人生に目的を持て」という意味だ。

 もちろん健康であることは大変望ましいことであるけれども、人間、歳を取ってくれば身体の不具合はいろいろと出てくるし、持病も一つ二つと増えてくるのはやむを得ない。がんのような大病を抱えてしまうこともありうる。しかし、健康であること、病気を治すことが人生の最終目的ではない。森田先生がよく正岡子規を引き合いに出したように、そして森田先生も身をもって示したように、また大原先生も同様であったが、たとえ重病に苦しみながらでも後世に名を残すような立派な仕事をすることができるのだ。病気があっても「生の欲望」に沿って行動していくことにより、自己の存在意義を示していくことはできるのである。名も無き凡庸な私としては、何かの形で人の役に立ち、自分も楽しんで、生き尽くしていければなあ、と常々思ってはいるが、もし七夕の短冊に何か書けと言われたら、無難に「健康でありますように」と書いてしまうような気がする。

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コメント

先生、こんばんは。そして、お疲れさまでした。


旧暦の七夕まつりなのですね。大人になってからは願い事も書く機会もありませんが、書けたならば、田舎で半分自給自足生活がしたいです。犬と猫と山の中てのびのびと暮らしたいです。


今の住まいは便利な場所ですが、人が多くて苦手です。 生まれた環境に戻りたい願望かな? 元気の素が沢山あるのが山だからでしょうね。

ヒロマンマ様

 コメントいただきありがとうございます。

 緑豊かな自然の中でゆったりと過ごせたら素晴らしいだろうな、と私も思います。でも、便利な生活に慣れてしまっていて現実には難しいですね。

 街中では「織姫」と「彦星」は何とか見えても、天の川を見ることができません。よほど山奥へ行かないと、街灯などの明かりのために空が明るくて、天の川を見たことがある人は少なくなっているかと思います。晴れた七夕の日には、1時間くらい一斉にネオンや街灯を消して、天空を眺めるというような企画があっても良いのではないでしょうか。

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