神経質礼賛 931.遠泳と回泳
月曜日の朝、NHKのニュースを見ていたら、東京海洋大学の学生さんたちの遠泳訓練を取り上げていた。私のような古い人間には東京水産大学・東京商船大学と言った方がなじむ。当然、海に興味がある学生が集まっている大学のはずだが、驚いたことに半数の学生は海水浴の経験がないという。しかも、全く泳げない学生もいるという。これでは大学側も大変だ。「君たちには浮きが付いているのだから沈むことはない」というコーチ役の潜水士さんの言葉に励まされて特訓が始まる。全く泳げなかった学生も無事に遠泳を成し遂げることができた。
同じ日の昼、浜松の「30分間回泳」をローカルニュースでやっていた。小学5年生たちがどんな泳ぎ方でもよいからプールの底に足を付けずに30分間泳ぎ続けるという行事であり、もう40年以上続いているのだそうだ。これは思いがけず水難に遭った時に自分の命を守る上で非常に役立つものと思われる。船が沈没したとか高波にさらわれたとかいう時に自分の力で泳いで岸までたどり着くのは難しい。体力を消耗して溺れてしまう危険性が高い。しかし長時間浮いていて救助を待てれば助かる可能性が高まるからである。
潜水士さんの言葉のように人間の体には肺という浮きが付いているので、力を抜いていれば自然と浮かぶことができる。しかし、「大変だ」と焦って手足を無駄にバタつかせたのではかえって溺れてしまう。
恐怖とする場面での私たちの対処法も遠泳や回泳の泳ぎ方と似ているのではないだろうか。例えば人前で話さなくてはならなくて強い不安感に襲われた時に、それから逃れようと焦れば焦るほど深みにはまる。「症状は逃げれば逃げるほど追っかけてくる、抗(あらが)えば抗うほど大きくなる」とは大原健士郎先生がよく言っておられた言葉である。不安はそのままにして、まあこんなものだ、と仕方なしにやっているうちに何とかなるのである。
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