神経質礼賛 949.水辺の文学碑
一昨日は精神保健相談のため、昼食後、保健センターに出かけた。午前中降っていた雨が止み、ちょっと時間があったので、三島駅から歩いていくことにした。三島は水の街である。駅南口から少し下って三嶋大社に向かう小川沿いの道にはライオンズクラズ寄贈の「水辺の文学碑」がある。黒い石碑はみな形が異なり面白い。三島にちなんだ和歌や短歌や小説などが刻まれていて、歩きながら数えてみると12あった。古くは室町時代の連歌師・宗祇の句「すむ水の 清きをうつす 我が心」。曇っていたので、芭蕉の句「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」であり、子規の句「面白や どの橋からも 秋の不二」のようにはいかない。新しいところでは、井上靖の小説や大岡信の詩を紹介する石碑もある。歩道には花が植えられている。
この道の主役は水鳥たちが泳いでいる小川だけれども、脇役の高く伸びた柳の街路樹もとても存在感がある。初期の記事に書いた「花は紅 柳は緑」(第3話、拙著p.123)の通りである。この言葉は、夏は暑く、冬は寒いのと同様、花は紅、柳は緑で、どうにもならない事実であり、あるがまま、ということである。私は、さらに、この言葉で、「花」は外向的で積極的な人の象徴、「柳」は神経質な人の象徴と解釈したい。「花」は鮮やかで咲いている時は注目されるがその期間は長くはない。「柳」は地味ではあるが一年中その風情を愉しませてくれる。強風にも枝をなびかせながら、枝葉を残す。渋い名脇役のような存在でもある。私も含めて神経質人間は、「自分は気が小さくて情けない」「何とか大胆になれないものだろうか」と考えがちだが、「柳」が「花」になれないのと同様、どうにも仕方ない。しかし、神経質にはその美点があるのだから、神経質の持ち味を生かしていけばよいのである。
景色と文学碑を愉しみながら歩いていくと三嶋大社である。さらに門前の道を南下していくと、市の施設の前に男の子と女の子が井戸から桶で水を汲む人形があった。花束を手にしたおばあさんがこっくりこっくり居眠りをしているのがユーモラスである。さらに南に歩いていくと、間眠神社という変わった名前の神社がある。まどろみじんじゃ、と読むのだそうだ。源頼朝が源氏再興を三嶋大社に祈願する際、仮眠をとった場所と伝えられる。ゆっくり歩いて30分ほどで保健センターに着く。ちょうど良い時刻になっていた。
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ご無沙汰です毎回楽しみに拝見させていただいております、先生の歩かれたコースgoogleビューワーで歩きました、迷いながらも保健センターまで・・たくさんの柳の並木がきれいですね、記念碑が柳並木の間に調和してました、パニック歴と疾病恐怖が長いもので一人では遠くへは行けませんが機会があれば三島大社へ参拝に柳並木歩きたいですね、それにしても毎回読んでますが先生の観察力はすごい!すごい洞察力のドクターには患者さんも幸せだと思います、先生見てると神経質は本当に良いですね
投稿: けんじ | 2013年9月27日 (金) 11時03分
けんじ様
コメントいただきありがとうございます。
googleのストリートビューを使ってバーチャル旅行ができるのですね。そこまで考えが及びませんでした。パニック発作の心配や疾病恐怖があっても、どこそこへ行ってみたいとか名店で食べてみたいとかという「生の欲望」が勝って、実際に行ってみられると、もっといいですね。お住まいの周辺や近くの街にも、美しい景観が楽しめるような意外な穴場があるかも知れませんよ。だんだん行動範囲が拡大していくといいですね。
投稿: 四分休符 | 2013年9月27日 (金) 21時31分