神経質礼賛 980.家康の倍返し
ゆるキャラグランプリで優勝を目前にしていた浜松市の「出世大名家康くん」(962・963話)は佐野市の「さのまる」に逆転されて準優勝に終わり、公約通りウナギのチョンマゲを切り落として出家し「出家大名家康くん」になってしまった。修行して還俗する機を探るのだそうだ。果たして「倍返し」はなるのだろうか。
本物の神経質武将・徳川家康(1543-1616)は執念深いところがあった。1581年に家康は武田方の重要拠点だった高天神城を攻め落とした。その際、生き残った敵方の将兵たちは助けたが、一人だけ切腹させた武将がいた。それは、今川家の元家臣だった孕石元泰。家康が今川の人質だった時代に隣家に住んでいて、しばしば家康が飼っていた鷹が迷い込むと「三河の小倅にはうんざりだ」と文句を言っていた。家康にしてみれば嫌がらせに思えて根に持っていたのだろう。20年以上も経ってから、倍返しどころか百倍返しである。
神経質人間はやられたことには過敏に反応する。ただ、相手はそれほど深く考えずにやっている場合もあるし、原因が自分にある場合もある。過剰に仕返しをすると、それがまた自分に返ってくることにもなる。できれば半返しくらいで済ませた方が無難な気がする。
さて、12月25日付読売新聞の磯田道史さんのコラム「古今をちこち」は「家康の気配り 敗走中も」という見出しで書かれていた。三方原合戦で大敗し命からがら浜松城に逃げ帰った家康の話は当ブログでも書いている。磯田さんはさらに浜松城に戻った時に家康とともにいた家来は7人しか残っておらず、怪しんだ門番がなかなか入れてくれなかったというエピソードを書いている。それには立腹したであろうが、簡単に入城させなかった門番の用心深さをたたえ、銀の延べ棒を褒美に与えたという。また逃げ帰る途中、自分についてきた左右の供の刀に痰唾を吐きかけて、後日、それを証拠にそれらの者を調べ上げて賞したと「三河之物語」に書かれているそうである。磯田さんは「そら恐ろしいことに、天下人になるような人間は、生死の境まで追い詰められた時でも、そんな気配りができた」と結んでおられる。私から見れば、神経質を生かした行動の積み重ねが家康に天下をもたらしたと思える。
今年もあとわずかとなりました。まもなく当ブログ開始から8年になります。懲りもせず毎月10話ずつ神経質人間のたわごとを綴っています。お読み下さった方々、コメントをお寄せ下さった方々に、深く感謝いたします。(四分休符)
最近のコメント