神経質礼賛 1000.この命
三島森田病院には次のような森田先生の色紙が保存されている。
この命 など姑息にて 安んぜん
唯この命 眞劔にして
昭和二年八月 森田形外
昭和2年、森田先生は52歳。この年の1月から劇作家・倉田百三が外来患者として毎週日曜日に受診するようになる。4月には京都の神経学会で精神分析の丸井博士と激しくやりあっている。7月には浅草松竹座に招待されて倉田氏脚本の俊寛の芝居を見ている。そして、この色紙が書かれた8月には家族ら7人で富士登山にチャレンジされている。結果的には5合目の宿で下痢になり、6合目付近でさらに体調が悪くなり、家族と分かれて強力一人が付き添って5合目に降りている。酒を飲もうとしたが、2,3杯しか飲めなかったと記している。8月を振り返って「晩酌スルコト多く、今月ハ 二十六回ニ及ブ」とある。年末には御家族とともに寝台車で大阪に向かいそこからは船で土佐に帰られている。喘息症状や腰痛に悩まされた時もあったようだが体調はまずまずであり、奥さんも息子さんもお元気であり、標題の歌を詠む状況とは考えにくい。
昭和4年あたりから重症の肺炎にかかったり、喘息症状が重症となったり、喀血したりすることが出始める。昭和5年には一人息子の正一郎を亡くし、さらに昭和10年に奥さんに先立たれてからは体調が思わしくなかったが、それでも患者の治療と弟子の指導や執筆活動は続けていた。普段から「如何に生に執着して踠(もが)くか、僕の臨終を見て貰ひたい」と弟子に話していて、その通りの生き様・死に様を示されたのである。
人間はいつかは死ぬ運命であるから、死の恐怖は誰にでもある。現世の栄華を極め、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ藤原道長でさえ、晩年には死の恐怖に怯え、不安神経症(パニック障害)に悩まされた(413話)。そして不安は決してなくならいものである。不安をなくそうと姑息な「はからいごと」をしたところで不安はなくならないばかりかさらに不安は強くなる。死を恐れながら、不安を抱えながら、今という時をものそのものになりきって真剣に生きて、生き尽していこう、この命を燃焼し尽そう、という姿勢が森田先生の色紙の歌には示されている。これは神経質だけでなく誰にとっても生きていく指針になるものだと思う。
毎月10話ずつ書き続けてきた当ブログもついに通算1000話となりました。御覧いただきありがとうございます。皆様からいただくコメントは私自身とても勉強になりますし、新しい話題の発見にもなります。マンネリのきらいはありますけれど、神経症治療の主戦場・神経質を生かす場は何気ない日常生活の中にあることを御理解していただけるような話を書いていきたいと思っています。(四分休符)
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