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2014年9月 8日 (月)

神経質礼賛 1064.家康人生最大の汚点

 先週の月曜日の「謎解き!江戸のススメ」(BS-TBS)という番組は家康の正室・築山殿の殺害、嫡男・信康切腹の謎についての話だった。以前から非常に興味のあるテーマだったので最初から最後まで見た。番組は戦国史研究の第一人者である静岡大学名誉教授の小和田哲男さんの説に基づきまとめられ、小和田さん自身も出演してわかりやすく解説しておられた。事件は嫡男・信康に嫁いでいた織田信長の娘・徳姫が姑である築山殿と夫の信康が武田方と内通しているとして二人の悪行を十二か条挙げた文書を信長に出したことが発端とされる。信長は家康の重臣・酒井忠次を呼び出し、釈明を求めたが、酒井は十二か条のうち十は正しいと認めたため、信長は二人の処分を家康に命じ、家康は信長との力関係からやむを得ず築山殿を殺害し信康を切腹させたということになっている。しかし、徳姫が姑との仲が悪いことを伝えたにしても、十二か条の文書を書くとは考えにくく、史料も残っていないことから、築山殿が武田と繋がりのある中国人医師と密通していたというようなことは、江戸時代になって家康を神格化するために築山殿を悪女に仕立て上げた作り話ではないか。信康が罪のない人々を斬ったという話も同様ではないか。浜松城にいた家康と岡崎城にいた信康の間には対立があって、家康は自分が信康に滅ぼされることを恐れて信康を二俣城に幽閉、それを知って信康の助命を家康に直訴しようと浜松城に向かった築山殿を家臣が気を利かせて途中で殺害した、というのが小和田さんの説である。確かに戦国の世では親子や兄弟間の争いや殺し合いは珍しいことではなかった。美濃の齋藤道三が息子の義龍に殺害された件や武田信玄が父・信虎を追放した件や織田信長が弟をだまし討ちした件など例はいくらでもある。三男の秀忠が生まれたことも信康抹殺に踏み切った一因ではないかと小和田さんは言う。

 築山殿に関する情報は少ない。家康と同年齢か少し年上だったと言われている。京の文化を愛した今川義元の姪であるから教養が高い女性であったことは間違いないし、人質時代の家康とは良い夫婦関係だった。しかし、桶狭間の戦の後、家康が信長と同盟を結び今川と敵対したことから築山殿は信康とともに逆に今川の人質となってしまい、築山殿の父親は自害を余儀なくされる。家康の重臣・石川数正が交渉して人質交換により岡崎に来るが、岡崎城には入れてもらえず、そのために築山殿と呼ばれた。かつて今川のために苦労をした家臣たちに配慮しての待遇だったのではないか。夫の家臣に斬られて非業の最期を遂げた上に悪女にされてしまったのは何とも気の毒であり、本当は良妻賢母だったのだろう。

 信康切腹に関して、家康が信長のように冷徹な人間ならば小和田説で納得できるが、家康の性格を考えると疑問に思う。ことあるごとにもうダメだと思い込んでは自害や斬り死にを何度も覚悟した神経質人間の家康が、積極的に自分の嫡男を抹殺するはずがない。浜松城にいた重臣の酒井忠次と岡崎城にいた重臣の石川数正はともに家康の人質時代から行動を共にしてきた。特に酒井は人質時代の近侍の中では最年長だった。しかし、彼らが一枚板というわけではない。酒井忠次が岡崎方の家臣たちを追い落とすため、重臣の大久保忠世とともに信康の非行について讒言し、家康としては家臣団の中で大きな力を持つ年長の酒井に配慮せざるを得なかったのではないだろうか。家康の祖父も父も家臣に暗殺されている。家臣たちの総意に沿った選択をしていかなければ自分の家が生き残れないことを家康はよく知っていた。また心配性のため信長の意向も過度に気にし、悩みぬいた挙句に仕方なしに築山殿殺害・信康切腹の命を下したのではないかと思う。つまり、「空気を読み過ぎた」のがこの悲劇の原因であり、家康の人生最大の汚点となってしまったと私は考える。家康は信康に会って弁明を聞くことはなかった。最初から無実だと知っていたからだ。会えばかわいそうで命令が下せなくなる。「本当にすまん。こうしなければ家を維持することができないのだ。力の足りない父を許してくれ」というのが家康の声なき声だったろう。切腹の際に介錯を命じられていた服部半蔵は信康があまりにも気の毒で太刀を取ることができなかったという。後年、息子の禄高が少ないと家康に訴えた酒井は「お前も息子がかわいいか」という家康の一言に凍り付く。幸若舞「満仲」を家臣たちと観た時の逸話も残っている。「満仲」とは、源満仲が子の美女丸を寺に預けて修行させたが、美女丸は経典を読まず暴力ばかり働くため、家臣に斬るように命じる。しかし、家臣は自分の子を身代わりにして首を刎ねて満仲に見せる。美女丸は心を入れ替えて修行に励み、立派な高僧になったというストーリーである。これを見ていた家康は涙を流して酒井・大久保の方を向き、「お前たちよ、あの舞は」と言ったので両人とも恐縮して身を震わせたという。また、関ケ原の戦の際には「倅(信康)が生きていれば」とこぼしていた。武勇と才気を持ち合わせた信康には強い愛着があって切腹させたくはなかったし、夫婦愛が醒めていたとはいえ築山殿を死なせたくはなかったのが家康の本心だったのだと思う。

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