神経質礼賛 1080.神経質は優秀か?劣等か?
森田正馬先生の治療を受けた医師で、後に九大医学部放射線科教授となって長崎の原爆被害についての調査研究を行い、さらには九大総長になった入江英雄という人がいる。この人は治療を受けた翌年に「神経質に対する一つの見方」という小論を「神経質」誌に発表している。森田先生やそのよき理解者だった九大の下田光造教授が神経質は優秀な性格であるとしたことに反論し、「神経質は通常人と比べると劣等だと思わざるをえない」「神経質はやはりつまらぬものだから治療する必要がある。そうすればせめて常人に近づく」と主張している。これに対して森田先生は同じ「神経質」誌に「気分本位の言葉である」と批判を加えている。そして、「私たちが神経質を礼賛するのは、私の6種の気質分類中で神経質が最も治療・教育・修養・向上の可能性が大きいがためである。生まれたままの神経質や、性癖に捉われ・病にこじれ・ひねくれ、何もできなくなった者や、入江君の言うような・煮え切らない・責任回避・意志の動揺等の変質・もしくは精神病的の状態におけるものをあえて好んで礼賛するものではない。ただ、その治る可能性を期待するとともに、今までほとんど低能のように・懦弱者のように見えていたものが、心機一転・光風霽月(こうふうせいげつ:さわやかな風と晴れ渡った月・わだかまりがなく、さっぱりした様子)・大なる活動家を礼賛するばかりである」と書いておられる(白揚社:森田正馬全集第6巻P.139-143)。
神経質性格に生まれついたことを嘆く人もいるかもしれない。もっと大胆で物事に動じない性格だったら良かったのになあと思う人もいるかもしれない。私自身、かつてはそうだった。しかし、今では神経質で良かったと思えるようになった。心配性の小心者だからこそ、細かいことに目が届き、あらかじめ準備をし、大きな失敗を避けることができる。そして発展向上欲が強いので今のままではダメだと思ってよりよいものを目指して努力することができるのである。神経質は森田先生が言われた通り、優れた素質であることは間違いない。しかしながら、その優れた素質を生かさなければ何もならないし、「症状」にとらわれていたのではせっかくの素質を無駄遣いしてしまうことになる。宝石の原石と同じことで、「玉磨かざれば光なし」であり磨かなければ神経質の良さを発揮できるようにならないのである。難しい理屈はいらない。ドキドキハラハラしながらも日常生活の中で必要なことをひたすらやっていく、それが玉を磨いていくことになるのである。
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