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2014年11月28日 (金)

神経質礼賛 1090.被害者意識

 外来に通院している人で、いつも延々と家族や近所や職場のグチを語っていく人がいる。こういう人は社会適応が悪く、症状もなかなか良くならない。ヒステリー(人格未熟な神経症)の心理機制に疾病逃避・疾病利得がある。さらには被害者意識への逃避ということもあるように思う。神経質であっても幼弱性が強い人・自己愛が強い人にはそのような傾向が出やすい。自分の生活がうまくいかないことや「病気」が治らないのは全て他の人たちのせいであって、自分は被害者である、だから周りの人が態度を変えるべきであって、自分には責任がないというわけである。実際にはこういう人は自己中心的な行動や言動で周囲に迷惑をかけていることが多い。被害者どころか加害者になっていることもありうる。国に例えれば、国内の矛盾や問題にはすべてフタをして悪いのはみんな日本のせいだと責任転嫁をして迷惑を垂れ流す近隣某国のようなものである。自分自身が変わらなければ解決しない。


 
 以前書いたように(631)、森田正馬先生は患者さんの指導の際に、よく「雪の日や あれも人の子 樽拾い」という句を引き合いに出された。8代将軍吉宗のもとで老中を務めた安藤信友(冠里)が江戸城に登城する際に酒屋の丁稚小僧を見て詠んだものだ。

 人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、たとえ酒屋の小僧でも、寒い時には苦しいと観ずるのを平等観というのであります。それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりやであるから、自分は特別苦しいというのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに増悪するのである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.40


 
 家庭や近所や職場は変えようがないし、すべてが自分にとって都合の良い場などありはしない。自分だけが苦しい思いをさせられている、という被害者意識は差別観から発生する。誰もがそれぞれの立場で苦しみながらも生きているのだという平等観で物事を見ることができればずいぶん変わって来る。森田先生が言われた「自然に服従し境遇に従順なれ」(828)の通りである。不安な気持ちを抱きながらも、嫌な気分を持ちながらも、昨日よりは今日、今日より明日を良くしようと努力し行動していくことが大切なのだと思う。

2014年11月24日 (月)

神経質礼賛 1089.時には上から眺めてみよう

ここ2日ほど快晴が続いた。一昨日は午前で仕事を終え、午後は写真撮り。県庁別館21階展望ロビーからの眺めは爽快だ。ここは大災害の時には対策本部が設置される場所だが普段は一般開放されていて、元日には初日の出を見る人々で賑わう。安倍川花火大会の夜も混雑する。子供たちが幼稚園や小学生の時には何度か連れてきたことがある。かつてあった喫茶コーナーはなくなっているものの座って休む場所はある。静岡市内が一望でき、富士山もよく見える。たくさん写真を撮った。しかし、後でパソコンに取り込んでよく見ると、窓ガラス越しなので室内の照明が映り込んでしまっていて、使い物になりそうな写真は少なかった。その後、歩いて臨済寺へ行く。建物は修復工事中で、大きなシートを被っている。シートが入らないように場所を選んで山門の写真を撮る。その後は近くの図書館の資料室で家康関係の史料を物色した。

昨日は浅間神社から浅間山に登った。最初に百段の石段を一気に登るとちょっと息切れ気味である。さらに登っていくとジワジワ汗ばんでくる。走って登っている若者もいれば、杖をついて登る高齢者もいる。60代くらいの夫婦をよく見かけた。そのうち眺望が広がってきて時々立ち止まって写真を撮る。頂上は標高140m。手頃なハイキングコースである。自分が子供の時にはよく登っていたし、自分の子供たちを連れても来たものだ。そう言えば、ここ十年以上登っていなかった。今では中心街に高い建物ができてエレベーターですぐに上がってガラス越しに眺望を楽しめるけれども、やはり自分の足で一歩一歩登って山頂から見る景色の方がはるかに優る。

劣等感を抱きやすい神経質人間はちょっとしたことで凹みがちだ。そんな時には、こうした身近な山に登って高いところから街を見下ろしてみるのも良いのではないだろうか。ちょっぴり達成感もある。ここまで登ってくる力があるのだから自分も捨てたものではない、そんな風に思えてくる。不安への対処も山登りと同じ、前に向かって一歩一歩進んで行くだけである。最初は見通しが付かなくても、いつしか必ず視界が開けてくる。そして悩みも小さくなっている。

2014年11月21日 (金)

神経質礼賛 1088.福太郎

一昨日は午後から保健センターの精神保健相談の日だった。保健センターは伊豆箱根鉄道で3駅目を降りてすぐのところにある。天気が良かったので、行きは三島駅から歩くことにした。以前(949話)にも書いたように、桜川沿いの小道を「水辺の文学碑」を眺めながら歩いていくのは心地よい。三嶋大社の脇から境内に入り散策する。先週のニュースで枯葉を大きな竹箒で掃除している様子が流れていたが、木々の葉はもうかなり落ちてしまっていた。樹齢1200年の金木犀もすでに花が落ちた後だった。イチョウの葉は鮮やかな黄金色に輝いて青空に映えていた。

境内には縁起物「福太郎」の茶店がある。伊勢神宮の「赤福」と同様、こし餡が載った餅であるが、「赤福」が白い餅なのに対して「福太郎」はヨモギ餅である。また、「赤福」が全面に餡を載せているのに対し、「福太郎」は餡が烏帽子風の形をしていて(リーゼントみたいだという人もいるが)それに合わせて餡を載せやすいように餅の形も少々カブトムシ型とでも言おうか先を細くしてある。箱には黒い翁の能面のような絵が描かれている。三嶋大社のホームページによれば、1月7日の「お田打ち神事」の際に、白い面を付けた舅の穂長(ほなが)がその年の恵方から登場し、黒い面を付けた婿の福太郎とともに種まき、鳥追いなどの稲作行事を狂言風に舞うのだそうである。菓子の福太郎はそれにちなんだもので、邪気を払うヨモギ餅になっているという。昼食を食べたばかりながら、茶店に入って福太郎とお茶のセット(税込200円)を頼み、腰を下ろして食べる。ほどよい甘さの餡とヨモギの風味が口の中いっぱいに広がる。お茶をすすって一服するにはちょうどよい。

その日の相談は2件あって、1件目は50代の妻について夫からの相談、2件目は30代ひきこもりの子供の母親の相談で昨年にも一度話を伺った人だった。1件目は確認行為が激しく、夫にも確認行為を行わせる巻き込み型の強迫神経症(強迫性障害)と思われた。本人は勝手に連れてこられたと怒って駐車場で車の中に籠っているという。夫の話を聞いた後で、保健師さんと一緒に駐車場の車の所まで行って話しかけたら車から出てきてくれた。しかし保健センターには入りたくないというので立ち話である。20分ほど本人の話を聞いた。舅や姑のことでどれだけ苦労してきたか、そして夫への不満を一気に話し続けた。夫からは殴られたり蹴られたりして手足にあざができていると言って見せる。御本人に対しては、いろいろと気になって確認し過ぎて疲れてしまったりイライラして困ったりしている様子なので、精神科を受診することをお勧めした。それから夫の激しい暴力があるとしたらDVにあたるので、然るべき相談窓口を利用した方が良いとも話した。夫に対する巻き込みが激しくて、夫がうるさがって暴力に出ているように思われた。夫に対しても暴力をふるわないよう注意した。

夫婦間での問題はどちらか一方が悪いということは少なくてどちらにも原因があることが多い。お互いの欠点を批判し合っていたのではこじれるばかりであり、お互いに歩み寄らないと解決しない。相手の欠点には少々目をつぶり、十言いたいところを五か六くらいに我慢する必要があるだろう。森田正馬先生も患者さんたちがいるところで久亥夫人としばしば夫婦喧嘩をし、どちらが正しいか判定しろと言われて患者さんが困ったというような話もあるし、怒った森田先生が籍を抜いてしまったこともあったという。原因は森田先生のわがままによるところが多かったらしい。

腹が立つことがあっても、時にはおいしいお菓子でも食べて、福太郎の面のように笑顔でいたいものである。

2014年11月17日 (月)

神経質礼賛 1087.ほうれん草と「報・連・相」

 このところ森田療法の患者さんたちが畑で作っている、ほうれん草・小松菜が豊作である。貧血防止に役立つ鉄分は小松菜の方がほうれん草よりもやや多いが、ほうれん草は鉄分の吸収をよくする葉酸をより多く含んでいるため、実質的にはほうれん草の方が効果は勝っているとも言われる。あのアニメのポパイのようにほうれん草を食べたら元気モリモリというわけにはいかないまでも、健康維持には有用な野菜である。ただし、ほうれん草はシュウ酸を含んでいる。シュウ酸を多量に摂取すると、カルシウムの吸収が阻害されたり尿路結石の原因になったりすることがある。シュウ酸は水溶性なので、生食よりも一旦茹でて、ゆで汁を捨ててから料理にすることでそれが防止できる。

 ほうれん草という言葉から連想するのは、私が最初の大学を出て会社員だった頃にビジネス界で流行った「報・連・相」である。上司への報告を密にし、先輩や同僚と連絡を取り合い、困難な事態に遭った時には相談することで、仕事が円滑に運んでいくというようなことだったと思う。今でもその大切さが言われる一方で、「報・連・相」を否定するような企業もあるという。ネット時代ゆえコミュニケーションのあり方も変化しているのだろうか。それとも上司と部下の関係が、上司が部下の様子を把握して細かく指示を出す従来の日本型から自己責任・自己判断に任せて結果のみで評価する欧米型に変化してきたからだろうか。それでも、困った時には一人で問題を抱え込まないで相談するということは大切だと思う。対人恐怖の神経質の場合、恥ずかしいという気持ちが先に立ってしまい、人に相談するということがなかなかできない。よく言えば独立独歩だけれども、行き詰まった時には、頭の中は堂々巡りに陥りやすい。相談したからすぐに解決するとは限らないけれども、人に話すことで頭の中が整理できて、そうこうしているうちに自分で良い答えを見つけるに至ることもある。カウンセリング効果である。人から見れば恥ではない。迷った時には相談してみるものだ。

2014年11月15日 (土)

神経質礼賛 1086.家康公手植えみかん

 急に寒くなってきて北西の風も強くなってきている。しかし、抜けるような青空が美しい。先日、浜松へ徳川家康関係の写真を撮りに行ったので、今度は静岡市内で写真撮りをする。駿府城公園内の家康像は有名だけれど、はて、どこにあったかなあ、近くに住んでいても意外と知らないものである。誤って「やすらぎの塔(戦時中に軍需工場に動員され空襲や機銃掃射で亡くなった中高生の慰霊塔)」まで行ってしまい、案内板に従って戻り、鷹を手にした家康像に辿り着く。その横には家康公手植えのみかんの木があって、小粒の実がたわわに成っていた。毎年、幼稚園児や小学生がこのみかんを摘み取る行事がニュースで話題になる。さらには市職員が摘み取って、市のイベントの際に配布されているらしいが、私は食べたことがない。このみかんの木は県の天然記念物に指定されている。四百年経っても毎年実を付けるとは大したものである。城内に実が成って食用になるみかんの木を植えたのは倹約家の家康らしい。そして、ビタミンCの効用が知られていない時代でも、家康は健康に良いものを選ぶ鋭い直観力を持っていたのだろう。家康の神経質が四百年後の人々にも恩恵を与えているのは素敵なことではないだろうか。

2014年11月14日 (金)

神経質礼賛 1085.時間がかかりすぎるWindows更新

 先日、外来診療を終えて引き上げようとして自分のパソコンの電源を切ろうとしたら、「Windows更新プログラムをインストール中 電源を切らないでください」の表示が出てしまった。何でこんなタイミングに、と内心思う。「○個中△個」という実行状況の表示が出るけれども、1個あたりの時間はまちまちであるから、あとどれくらい時間がかかるのか皆目見当がつかない。仕方がないので製薬会社のMRさんが持ってきた文献を読みながらひたすら待つ。20分余りかかって終わり、やっと診察室から引き上げることができた。次に電源を入れた時には「更新プログラムを構成中 ○%完了 電源を切らないでください」などという表示が出て、また待たされることになる。

 最近のパソコンのOSは大規模になっていて、更新プログラムも大きくなっている。そしてセキュリティー対策のためOSの更新プログラム数も増えているから、更新待ちにかかる時間は増大する一方である。手動更新にすれば時間がある時にまとめて更新することもできるが、そうすると更新を忘れて溜まってしまうから自動更新にしていると、電源を切りたい時に切れない、使いたい時にすぐに使えないという問題が起きてしまう。全くパソコンは便利なのか不便なのかわからない、とぼやいてもどうにもならない。電源を切る時には時間にゆとりを持って早めに、電源を入れる時も運が悪ければすぐには使えないこともある、と承知の上で早めに電源をいれておく、と神経質らしく対応していくしかなさそうである。

2014年11月10日 (月)

神経質礼賛 1084.動物を飼うことの効用

 今年の森田療法学会は8日(土)・9日(日)に東京慈恵医大で開催された。会場受付近くには森田正馬展という展示コーナーが作られ、普段は三島森田病院の資料室に保管されている森田先生の色紙や日記や遺品などが一般公開されていた。私は例によって日帰りで初日だけの参加だった。

一番印象に残った発表は、皮膚科クリニックを開業しておられる女医さんの発表だった。アトピー性皮膚炎の患者さんでは痒いから掻きむしって悪化させるという悪循環がみられる。神経質な性格傾向を持っている人も少なくない。発表例ではひきこもりのアトピー性皮膚炎の若い男性患者さんに対して外来森田療法を行い行動本位の生活を送るよう指導したが一進一退だった。家族の希望もあって犬を飼い始めてケージの置場が患者の部屋だったためいやおうなしに世話係になった。仕方なしに排便の世話をしているうち愛着もわき、昼間に散歩に連れて行くようになると、昼夜逆転傾向の生活が規則正しくなり、バイトに出たり、家業を手伝ったり、通信教育を受けたり、と行動が積極的になり、アトピーもすっかり改善したという。

私の外来患者さんでも犬を飼って精神症状がよくなる人が時々いる。うつ病が遷延化してひきこもりがちの人に効果が大きいように思う。犬の場合、エサやりや糞の処理だけでなく、散歩に連れて行く必要性がある。犬に連れられるように仕方なく外に出かけているうちに結果として気分も改善してくるし、生活のリズムができてくるし、注意が外に向くようになってくるのである。

現代の病院では衛生上の問題があって動物を飼うのは困難であるが、森田先生の診療所ではニワトリ、ウサギが飼われていた。ペットとしてではなく実用性を考えてであったから、犬猫は飼っていなかった。ニワトリは卵を産む。森田先生は卵が大好物であり、ゆで卵は一度に10個でもペロリと食べてしまう人だった。そしてウサギは毛皮に使える、というわけである。サルも飼っていたが、元は実験動物用だったことは以前書いた通りである(988話)。これらの動物たちの世話は入院患者さんたちの仕事の一つだった。動物たちのエサは青物市場へ行ってクズ野菜をもらってくる。時には市場の人から、「いい若い者が何やってるんだ」などと言われ、とても恥ずかしい思いをする。対人恐怖の患者にとってはつらいことだが、動物たちが生きていくために必要であるから仕方なしにやることである。動物の糞の処理は不潔恐怖の患者にとっては避けたいことだが、これまた仕方ない。嫌であっても必要なことに手を出す習慣がついてくれば、神経症はどんどんよくなってくるのである。

2014年11月 7日 (金)

神経質礼賛 1083.終身雇用廃止

 月に1回訪問してくる中堅製薬会社のMRmedical representative:医療情報担当者)さんが、「今度、外資系の会社に売却されることになりました」と言う。製薬会社の再編は凄まじい。相次ぐ合併やら外資系入りなどのため、銀行ではないが、元の名前がなんだったかなあ、とわからなくなるくらいである。日本名の製薬会社は減っている。合併により二つの社名をくっつけて社名が長くなって読みにくく覚えにくいものも増えている。近頃の製薬会社のMRさんは大学出たての若い人が1、2年でどんどん入れ替わっていく。それに対して、このMRさんはかれこれ15年以上変わらずに来ているので、いつも薬の話半分、世間話半分である。年齢も私と同年代か少し若いくらいだろうか。外資系になって先々どうなるかわからないので、子供の教育費や老後の生活資金が心配だという。「向こうの会社は社員よりも株主ですからねえ」と言って帰って行った。

 最近、日立製作所が年功序列・終身雇用廃止を打ち出した。ソニー・パナソニックも検討中とのことである。また、114日付毎日新聞夕刊の特集ワイドの記事によれば、政府が高ROM(株主資本利益率)経営を推奨する政策を打ち出しているという。ROMとは利益を資本金や剰余金などで割った比率であり、資本をいかに有効活用し利益を生み出したかと見る指標なのだそうだ。それを高めて外国人投資家に日本株を買ってもらって株価を上げるのが目的らしい。「ROM教」に心酔する経営者はてっとり早く雇用を減らして簡単に利益を上げようとする傾向がある。この政策は雇用の非正規化を推進し、賃金を抑え、消費を冷やして自分の首を絞めるような問題点があるという。

 このところ家康関連の書籍や資料を片っ端から図書館から借りてきて読んでいるので頭の中身が家康漬けになっていて申し訳ないが、信長・秀吉・家康を経営者として考えたら彼らの雇用法は対照的で面白い。破竹の勢いで周囲の戦国大名や宗教勢力などを破っていった信長の雇用は今でいうブラック企業的なところがある。無理なノルマを課し、達成できなければ切り捨てる。激しい競争を勝ち抜いたごくわずかのヤリ手が生き残る。人たらしの名人と言われた秀吉は高給をチラつかせたヘッドハンティングを得意とした。現代の外資系企業を思わせる。有能な人材は集まるが、そうした人材は他へも流れやすいし、新たな人材育成という点では問題がある。家康は投降した敵将たちも殺してしまわず家臣として登用した。家臣が失敗したからといって簡単に切り捨てずに挽回のチャンスを与えた。戦傷のため武士としての働きができなくなっても民政にあたらせるなど、適材適所に配置するのが巧みだった。終身雇用制どころか家を守らせて子孫たちも雇用する仕組みを作り上げた。どれも一長一短ではある。少子高齢化はどんどん進んでいき、年金受給年齢は高くなっていく。若い人がヤル気を出して力を発揮でき、中高年も路頭にさまようことがないようなバランスのとれた雇用体系が求められる。

2014年11月 5日 (水)

神経質礼賛 1082.銭取

 現在、徳川家康にまつわる依頼原稿を書いている。当ブログで紹介してきたように家康は神経質の代表選手であるので、そうした視点から家康を論じて、森田療法についても一般の方々に紹介しようと目論んでいる。一昨日の文化の日は夕方から当直勤務入りだったので、昼間に浜松へ行って、原稿に添える写真を撮ってきた。ちょっとした取材旅行気分である。もっともどこからも取材交通費は出ないが。医大生の時、私は静岡市内の実家から徒歩・電車・バスと合わせて片道2時間半かけて通学していた。現在はバス路線が変わってしまったが、当時は医大循環高町経由という大回りのルートがあって、このバスは家康の人生で唯一の大敗戦、三方原の戦いの際に浜松城と三方原を往復した姫街道を走っていた。その途中に銭取というバス停がある。何ともすごい地名であるが、さすがに町名ではない。その北の方には小豆餅という町がある。浜松には「家康食い逃げ伝説」があってそれにちなんだ名前の餅や饅頭が売られている。家康が腹をすかせて茶店で小豆餅を食べていたところ武田信玄の軍が追ってきたので銭を払わずに逃げ出した。すると茶店の老婆が家康を走って追いかけて捕まえ、しっかり銭を取ったというのである。小豆餅バス停から銭取バス停までは2㎞以上もある。伝説が本当ならばこの老婆はとんでもない快速ランナーだったことになる。もちろん、これは伝説であって、実際は茶店に寄るどころではなく極めて悲惨な戦いだった。圧倒的な戦力差と信玄の巧みな戦術の前に家康は惨敗。家臣たちが家康の身代わりになって次々と討死していった。姫街道の浜松北高校に近い所には「自分が家康である」と名乗って武田軍に斬りこんで家康を助けて果てた夏目吉信の石碑が立っている。また、徳川軍の殿(しんがり:退却する際、敵の追撃を防ぐ役)を買って出て、街道の両脇に徳川の旗を立て、「ここからは一歩も引かぬ」と奮戦して亡くなった本多忠真の顕彰碑も立っている。おかげで家康はかろうじて浜松城に逃げ戻っている。家康はこの時の情けない顔「しかみ像」を描かせ、神経質人間らしく、それを座右に置いて終生反省していたという話は209話に書いた通りである。

 それでは、銭取の本当の由来は何だろうか。当時そのあたりには人家がなく、賊が出て通りかかった者から銭を奪っていたため、という説が正しいように思われる。小豆餅の地名の由来も三方原の戦いで命を落とした兵のために供えた小豆餅からきたものらしい。徳川の治世だった時代に家康食い逃げ伝説を作った浜松人は実に逞しいと思う。

 三方原の戦いで大敗した晩、徳川軍は浜松城の北1kmほどのところに陣を敷いた武田軍に夜襲をかけて一矢を報いた。まさか攻めてくるとは思ってもみなかった武田軍は混乱し、犀が崖から転落して多数の死傷者を出したという。徳川方が布をかけて橋に見せかけた所から転落した兵もいたと伝えられ、布橋という町名になっている。この犀が崖を上から見た。深さ20mほど、幅30mほど、竹や草木が生い茂り昼でも暗い。その後は浜松城をカメラにおさめる。さほど大きくない天守閣だが快晴の青空に映えて美しい。最後に浜松東照宮にお参りして、ミニ取材を終えた。

2014年11月 3日 (月)

神経質礼賛 1081.LEDと健康問題

今年のノーベル物理学賞に青色発光ダイオード(LED)の発明・商品化に成功した日本人3人が選ばれ、ますますLEDに注目が集まっている。低消費電力の上に長寿命であるから価格の低下とともに急速に普及し、新しい照明器具は電球や蛍光管からLEDにすっかり置き換わりつつある。

 ただ、健康上の問題点もある。487話で紹介したように、白色LEDは青色LEDをベースに作られていて、その光はいわゆるブルーライトを多く含んでいる。最近のパソコンやスマートフォンの液晶のバックライトにはLEDが使われている。消費電力が少なく寿命も長く機械的衝撃にも強いというメリットがあるけれども、長時間見ていると、眼に対する悪影響が懸念される。そして夜間そうした光にさらされていると、昼夜逆転するような睡眠リズムに対する悪影響も心配である。長時間のパソコン・スマートフォンの使用は避けた方がよいのだが、現実には仕事も趣味もパソコン・スマホに頼ってしまっているため、なかなかそうはいかないという方も多いだろう。私も人ごとではない。ブルーライトを減弱させる眼鏡が最近は販売されているのでそうしたものを利用するか、せめて夜遅くの使用は避けて早めに休むように心がけた方がよいだろう。

 それと、自動車の運転中あるいは助手席に座っていて信号待ちしている時に、前の車の赤いブレーキランプが眩しくて気になる経験が皆さんにもあるかと思う。車種によっては、眼に焼付く感じがするものさえある。自動車のブレーキランプも急速に電球からLEDに置き換わっている。LEDも電球と同じ点光源ではあるけれども、発光部分の大きさが電球に比べて極めて小さい。複数のLEDを並べてトータルで電球と同様の明るさを得ている。全体が明るくなる電球と違い、LEDはピンポイントだから、小さく明るい光点から強い刺激を感じるし、網膜に焼付く感じがしてしまう。これも運転の安全上、また眼の健康上好ましくないのではと心配である。今よりも低輝度のLEDを数多く並べるか、光を適度に散乱させて刺激を和らげるようなフィルターを付けてくれるとありがたい。ぜひとも自動車メーカーには配慮してほしいと思う。

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