神経質礼賛 1090.被害者意識
外来に通院している人で、いつも延々と家族や近所や職場のグチを語っていく人がいる。こういう人は社会適応が悪く、症状もなかなか良くならない。ヒステリー(人格未熟な神経症)の心理機制に疾病逃避・疾病利得がある。さらには被害者意識への逃避ということもあるように思う。神経質であっても幼弱性が強い人・自己愛が強い人にはそのような傾向が出やすい。自分の生活がうまくいかないことや「病気」が治らないのは全て他の人たちのせいであって、自分は被害者である、だから周りの人が態度を変えるべきであって、自分には責任がないというわけである。実際にはこういう人は自己中心的な行動や言動で周囲に迷惑をかけていることが多い。被害者どころか加害者になっていることもありうる。国に例えれば、国内の矛盾や問題にはすべてフタをして悪いのはみんな日本のせいだと責任転嫁をして迷惑を垂れ流す近隣某国のようなものである。自分自身が変わらなければ解決しない。
以前書いたように(631話)、森田正馬先生は患者さんの指導の際に、よく「雪の日や あれも人の子 樽拾い」という句を引き合いに出された。8代将軍吉宗のもとで老中を務めた安藤信友(冠里)が江戸城に登城する際に酒屋の丁稚小僧を見て詠んだものだ。
人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、たとえ酒屋の小僧でも、寒い時には苦しいと観ずるのを平等観というのであります。それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりやであるから、自分は特別苦しいというのを差別観という。この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と妥協ができなくなり、強迫観念はしだいに増悪するのである。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.40)
家庭や近所や職場は変えようがないし、すべてが自分にとって都合の良い場などありはしない。自分だけが苦しい思いをさせられている、という被害者意識は差別観から発生する。誰もがそれぞれの立場で苦しみながらも生きているのだという平等観で物事を見ることができればずいぶん変わって来る。森田先生が言われた「自然に服従し境遇に従順なれ」(828話)の通りである。不安な気持ちを抱きながらも、嫌な気分を持ちながらも、昨日よりは今日、今日より明日を良くしようと努力し行動していくことが大切なのだと思う。
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