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2014年11月 5日 (水)

神経質礼賛 1082.銭取

 現在、徳川家康にまつわる依頼原稿を書いている。当ブログで紹介してきたように家康は神経質の代表選手であるので、そうした視点から家康を論じて、森田療法についても一般の方々に紹介しようと目論んでいる。一昨日の文化の日は夕方から当直勤務入りだったので、昼間に浜松へ行って、原稿に添える写真を撮ってきた。ちょっとした取材旅行気分である。もっともどこからも取材交通費は出ないが。医大生の時、私は静岡市内の実家から徒歩・電車・バスと合わせて片道2時間半かけて通学していた。現在はバス路線が変わってしまったが、当時は医大循環高町経由という大回りのルートがあって、このバスは家康の人生で唯一の大敗戦、三方原の戦いの際に浜松城と三方原を往復した姫街道を走っていた。その途中に銭取というバス停がある。何ともすごい地名であるが、さすがに町名ではない。その北の方には小豆餅という町がある。浜松には「家康食い逃げ伝説」があってそれにちなんだ名前の餅や饅頭が売られている。家康が腹をすかせて茶店で小豆餅を食べていたところ武田信玄の軍が追ってきたので銭を払わずに逃げ出した。すると茶店の老婆が家康を走って追いかけて捕まえ、しっかり銭を取ったというのである。小豆餅バス停から銭取バス停までは2㎞以上もある。伝説が本当ならばこの老婆はとんでもない快速ランナーだったことになる。もちろん、これは伝説であって、実際は茶店に寄るどころではなく極めて悲惨な戦いだった。圧倒的な戦力差と信玄の巧みな戦術の前に家康は惨敗。家臣たちが家康の身代わりになって次々と討死していった。姫街道の浜松北高校に近い所には「自分が家康である」と名乗って武田軍に斬りこんで家康を助けて果てた夏目吉信の石碑が立っている。また、徳川軍の殿(しんがり:退却する際、敵の追撃を防ぐ役)を買って出て、街道の両脇に徳川の旗を立て、「ここからは一歩も引かぬ」と奮戦して亡くなった本多忠真の顕彰碑も立っている。おかげで家康はかろうじて浜松城に逃げ戻っている。家康はこの時の情けない顔「しかみ像」を描かせ、神経質人間らしく、それを座右に置いて終生反省していたという話は209話に書いた通りである。

 それでは、銭取の本当の由来は何だろうか。当時そのあたりには人家がなく、賊が出て通りかかった者から銭を奪っていたため、という説が正しいように思われる。小豆餅の地名の由来も三方原の戦いで命を落とした兵のために供えた小豆餅からきたものらしい。徳川の治世だった時代に家康食い逃げ伝説を作った浜松人は実に逞しいと思う。

 三方原の戦いで大敗した晩、徳川軍は浜松城の北1kmほどのところに陣を敷いた武田軍に夜襲をかけて一矢を報いた。まさか攻めてくるとは思ってもみなかった武田軍は混乱し、犀が崖から転落して多数の死傷者を出したという。徳川方が布をかけて橋に見せかけた所から転落した兵もいたと伝えられ、布橋という町名になっている。この犀が崖を上から見た。深さ20mほど、幅30mほど、竹や草木が生い茂り昼でも暗い。その後は浜松城をカメラにおさめる。さほど大きくない天守閣だが快晴の青空に映えて美しい。最後に浜松東照宮にお参りして、ミニ取材を終えた。

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コメント

四分先生、たいへん面白く読ませていただきました。偉人シリーズは売れるんじゃないですかhappy01

たらふく様

 コメントいただきありがとうございます。

 森田正馬先生は大いに神経質を礼賛されていましたが、最近の「森田療法家」の先生方の頭からはその大事な部分が抜けてしまっているようです。当ブログでしばしば神経質の傑物を取り上げるのは神経質の皆様方にその良さを理解していただくためであります。神経質の旗印を掲げて細々と(笑)ゲリラ戦を続けて行こうと思います。

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