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2015年2月27日 (金)

神経質礼賛 1120.修養と実行

森田療法は精神療法の中では訓練療法に分類されている。自分の「症状」にばかり目が向いてしまう患者さんたちに対して、現実の生活の中で周囲の状況をよく観察しながら周囲の物や人の価値が最大限に発揮できるように行動していくことを指導していく。その結果として、神経質性格を生かして環境に適応できるようになるとともに、気が付けば「症状」は忘れている。そして、それまで症状にとらわれていたものが、社会や家庭や学校で大活躍できるようになるのである。森田先生は「修養は、ともかくも実行である。私に接近し、私の気合に触れねばならぬ。この感化を受ける事を薫陶といいます。この気合で神経質が治るのであります」(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.191)と述べている。森田先生のお弟子さんたちの施設の鈴木知準診療所や三聖病院では入院患者は「修養生」と呼ばれていた。


 
 もちろん、必ずしも入院しなくても、通院しなくても、日常生活の中で修養して治していくことは可能である。

森田先生のもとには外来患者や元入院患者ばかりでなく、著書の読者からの手紙が届くことがよくあって、先生はそれに対して返事を出していた。ある時、強迫観念に悩む店員から、「現在の境遇では修養できない」「今32人の店員がいて、気の合わない者もたくさんいる。時には、なぜ思ったままを怒鳴れないのだろう、何と不甲斐ない男だろうと残念でならない」という手紙が届いた。それに対して森田先生は次のように返事を書かれている。


 
 学生が寄宿舎に同居し、店員が大勢に一緒で、氣の合はない人様々の思はくのある事は当然であります。其處で調和しながら、自分の目的に進むのが、之が実際の修養であります。理想主義、超然主義や隠者やが思想の上や机上論で修養を論ずるのが、大間違ひの元です。こんな事も皆拙著によつて研究してお貰ひする外ありません。怒鳴り得ないのが「すなほ」であり「忍受」であり、人の德の最も大切な事です。   第4巻 p.593


 
 環境に柔順になるのが修養であり、理屈はさておき目的本位に行動することだと森田先生は言っておられる。どこにでも嫌な人はいるし、自分の思い通りにならないのは仕方ない。そんな中で気分本位にならずにやるべきことを地道に積み重ねていくことが大切なのである。

2015年2月25日 (水)

神経質礼賛 1119.夜の講演会

 昨夜は島田市で医療関係者の小さな会があって森田療法の講演をさせていただいた。今年は家康公四百周年なので、前半で森田療法を概説した後、当ブログで発表してきた徳川家康の話をした。

  神経質性格の歴史的著名人の中で家康は筆頭に挙げていいだろうと私は思っている。元々、小心・取越苦労の心配性の傾向はあったのだろう。3歳で母親と離別、今川家の人質となるはずのところを拉致されて織田の人質となり、その間に父親は家臣に殺される。その後の人質交換により改めて今川の人質となっている。これらが「ヒポコンドリー体験」となって、竹千代少年(家康)は「死の恐怖」に怯えたに違いない。駿府では当初は病弱であり、祖母の華陽院が養育することを許されていたが、体の病気というより、神経症的な症状だった可能性が高い。成人となってからの家康の持病に「寸白(すばく)」(条虫症)があり、侍医の反対にもかかわらず、自分で調合した「万病円」という水銀を主成分とする薬をしばしば飲んでいた。生ものは警戒して食べることのなかった家康が条虫症になるとは考えにくく、実は胃腸神経症だったのではなかろうか。そして「万病円」はプラセボ(偽薬)として効果を発揮したのだと思われる。

  先週末の新聞に浜松市美術館で家康の「しかみ像」(209)の実物大像が作られて展示されているという記事が載っていた。普通ならば嫌なことは忘れようとするが、家康は三方原の戦で大敗北を喫した時の惨めな自分の姿を画家に描かせ、常に座右に置いて慢心の戒めにしたという。神経質らしく、失敗にこだわり、同じ失敗を繰り返さないよう心掛けたおかげで大きな目的を達することができたのである。

森田先生が患者さんの指導に用いた「中庸」の中の言葉「己の性(しょう)を尽くし、人の性を尽くし、物の性を尽くす」は神経質の生きる指針として重要だと思われる。家康も臨済寺で今川家の軍師である雪斎から四書(大学、論語、孟子、中庸)を学んでいるはずなので、この言葉を知っていた可能性が高い。家康の場合、己の性を尽くすということでは、我慢に我慢を重ねて常に努力を怠らず、「厭離穢土 欣求浄土」、戦のない世の実現という目的に向かって行動した。人の性を尽くすということでは、部下や家族によく気を配り、上手に人材を登用した。人材登用は武士だけに留まらず、僧侶の金地院崇伝や天海、学者の林羅山、女性の阿茶の局、外国人のウイリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンなど、実に多岐にわたっている。物の性を尽くすということでは、無駄をなくして倹約に努め、財を残し、幕府の財政基盤を盤石なものにした。私たち凡人は、信長や秀吉のような大天才の真似はできないけれども、神経質の偉大なる凡人・家康から学ぶところは多いと思う。

2015年2月23日 (月)

神経質礼賛 1118.会食恐怖

 先日、会食恐怖を主訴とする男性が外来を受診された。会社で他の人と一緒に食事をすると、食事が喉を通らない。一人で食べれば大丈夫なので、普段は何とか凌いでいる。ところが困ったことに、上司や同僚たちとともに長期出張して一日中行動を共にしなければならないことがあって、その時は、他の人たちが飲食店に入っている間にコンビニで買ったものを一人で車の中で食べるのだそうで、かなり苦労しているとのことである。

 会食恐怖は赤面恐怖、視線恐怖、正視恐怖、体臭恐怖、醜形恐怖、吃音恐怖などとともに対人恐怖の一亜型である。しかし、意外と精神医学事典などに記載がないものである。この男性のように何とか仕事ができていると、自分は気が小さいだけだと考えて、人に相談したり医療機関にかかったりすることが少ないのではないかと思う。男性ばかりでなく、女性にもある。最近は親しい女性だけで飲食を共にする「女子会」が盛んだが、それを苦手とする女性もいることだろう。

 対人恐怖だった私の場合、会食の際、食べている時間はいいのだが、食べてしまうと間が持たなくて、「困ったぞ、何か話さなくては」と焦り、居づらい感じはある。会食恐怖とまではいかなくても、その予備軍である。子供の頃から食べながらしゃべる習慣がなかったから、おしゃべり好きの妻からは夕食の時、「お通夜みたい」と揶揄されている。そんな具合であるから、前述の男性の辛さはよく理解できる。

 神経症の対人恐怖の場合は、森田療法で言うと「恐怖突入」、緊張しても不安になっても仕方なしに、苦手とする場面を避けずにぶつかっていくのが治療になる。行動療法では曝露療法(エクスポージャー)という。統合失調症のような精神病による対人恐怖の場合は薬による治療がまず必要であるけれども、会食恐怖を含めて神経症の対人恐怖では薬よりもそうした精神療法とりわけ訓練療法が重要となる。苦手な場面を避けていると症状はますます悪化する。「便所飯」(547話)に至ることもありうる。誰でも人前では緊張するし会食中に失態を演じないか心配になる、自分だけではないのだ、とあきらめてその場に出席してみることだ。苦しいながらも何とかその場に居おおせてある程度食べられればそれでよしとしよう。それを続けていけば、いつかは気にならない時が出てくるようになるものだ。

2015年2月20日 (金)

神経質礼賛 1117.歩道の舗装

 例年のことながら、2月・3月はあちこちで道路工事や水道工事やガス工事が行われている。しばらくぶりに車で走って、工事個所を迂回すると、ありゃりゃ、また次の道も工事中で通行止め。一方通行のため迷路のようになっている所もある。以前、年度末の工事ということで164話に書いたけれども、年度末になると予算を使い切らなくては、とドタバタ工事を行い、同じ個所を何度も掘り返しているのは実に効率が悪い。お役所仕事の典型である。年間を通して計画的に効率よくまとめて工事していくことはできないのかと思う。


 
 歩道の舗装工事も行われている。街中では景観に配慮してタイルを敷き詰めたようなインターロッキング舗装やカラーアスファルト舗装にするのだが、無計画に後から水道工事やガス工事が行われて掘り返され、その部分は黒いアスファルトで埋められてかえって見苦しいことになる。いつも仕事帰りに通る広めの一方通行の道路には砂利を固めたようなカラー塗装の歩道がある。車道と歩道の間は排水孔のあいた金属プレートになっている。できた時には洒落た感じでとてもきれいだったが、数年経ってみると、砂利がボロボロになって剥がれ落ちて、激しくデコボコして歩きにくくなってしまっている。靴が引っ掛って躓きそうになることもある。そのため、歩道を避けて車道を歩く人が多い。私も車が近づいて来ると歩道に移るが、なるべく車道を歩いている。これでは何のための歩道かわからない。歩道を作らずに路側帯のペイントだけにした方がマシだったのではないかと思う。通りに面して高齢者専用マンションもできていて、この歩道では危ない。バリアフリーのつもりで車道と歩道の間を段差なしにしていて、歩道に駐停車する自動車が多いために歩道の傷みが激しいのだろう。「景観保護」「バリアフリー」どちらも一見よさそうだけれども、耐久性や全体のバランスにも神経を配らなければこうなってしまうのである。安全にかかわることであるから、大いに神経質であって欲しいところだ。

2015年2月16日 (月)

神経質礼賛 1116.森田療法にハマる人

 生活の発見会の協力医ということで毎月機関誌を送っていただいている。その「生活の発見」誌2月号の巻頭に新潟集談会の代表幹事をされている方の「発見会にハマる人」という記事があって興味深く読ませていただいた。「森田療法や発見会にハマる人は、だいたいにおいて真面目で不器用、そして人生を真剣に考えてより良く生きたいと本気で望み、学ぼうとする意思のある、向上心の強い人ではないでしょうか。また心の底には優しさがあり、人が好きで、出来れば人の役に立ちたいという使命感を持っているのではないかと思います」と書かれている。


 
 まさにその通りであり、それが森田神経質の特徴なのである。一般に言う神経質は性格傾向のスペクトラムであって、誰にも多かれ少なかれ神経質な部分はある。森田先生はその中でも神経質傾向の強い人のうち、人格が未熟で子供っぽい性格の人をヒステリー、大人の人格を持った人を(森田)神経質としている。「余の療法」つまり森田療法は後者を対象としている。だから同じような症状であっても、依存心が強く人格の未熟さが目立つ人では、森田療法の「症状は不問」はガマンできない。依存心即安心であって、手っ取り早く薬でも慰めでも何でもいいから気分を楽にしてもらいたがるのである。一方、(森田)神経質は自分が不甲斐ないと思い、なるべく薬に頼らずに何とか自分の力で治そうと努力する。そうした人は森田療法の本を読むと、まさに自分のことが書いてあると感じて森田療法がしっくりくるし、生活の発見会に入るとピタリとハマるのである。


 
 森田療法を受ける人も発見会に入会する人も、最初は何とか苦しい症状を治せないかと思ってその門を叩く。ところが森田療法では、その希望をすぐにかなえてくれるわけではない。苦しいまま作業に取り組んでいくように指導される。こんなことで本当に治るのだろうか、と疑心暗鬼のまま作業に取り組んでいくと、いつしか自分の方にばかり向いていた注意が自然と外に向くようになってくる。ふと気が付くと「症状」はまだあるにせよ、それにとらわれていない自分がそこにある。そんな治り方をするのである。自分だけが苦しいという差別観で見ていたのが、誰もが不安や緊張を抱えていてそれからは逃れられないのだ、という平等観に変わっている。さらには後輩の世話をするようになり、「明けくれに己が苦悩をいたはりて子等も人をも思ふひまなし」という小我の偏執から脱却して、「人の性(しょう)を尽くす」周囲の人々がその力を発揮できるように手助けして、人から頼られる存在になっているのである。こうなると神経質を生かして自己の存在意義を発揮できるようになっているのだ。

2015年2月13日 (金)

神経質礼賛 1115.水仙

 一昨日の建国記念日は穏やかな晴れの日だった。青空ながら富士山を見ると少し霞がかかっていて、もう黄砂が飛び始めたのかな、と思う。仕事が休みの日の常で旧実家の片付けに行く。主のいない家の庭にはひっそりと水仙の花が咲いている。水仙は冬の季語であり、もう時期外れということになるが、「仏壇に水仙活けし冬至かな(高浜虚子)」の句のように水仙の花を切って母の居宅に持って行き仏壇にあげる。水仙の花は意外に長持ちする。そして「其のにほい桃より白し水仙花(松尾芭蕉)」というように香りを放つのである。


 
 ギリシア神話では水に写った自分の姿に恋焦がれて死んだナルキッソスNarcissusが水仙になったとしていることから水仙の学名はその通りになっている。また、そこからナルシシズムnarcissism(自己愛)という概念が生まれた。弘文堂の新版精神医学事典によれば、臨床的には一人よがり、自己中心的、尊大、誇大的イメージ、すべての人から愛されていると感じ、愛されていることを要求するといった心理を指す。ともすると医学部教授や世襲のお坊ちゃま政治家・経営者にありがちである。そうした人が上司だと部下はとても苦労する。何を言われても「ハー、そうですかー」と聞き流すしかない。神経質人間にも自己愛はあるが、健康的な自己愛であるし、強い劣等感も併存しているので、万能感に満ち溢れて人に迷惑をかけるようなことはまずない。そして、自分はまだまだダメだ、と思って我慢と努力を重ねるので、着実に発展向上していくのである。神経質は小心にオドオドのあるがままでよい。

2015年2月 9日 (月)

神経質礼賛 1114.ご当地アクセント

 遠方から転居されてきて転医となった方と話していると、独特のアクセントに気付くことがある。もっとも、私が住んでいる所も地方独自のアクセントがある。なにぶん、東西に広い県なので、同じ県内でも東部・中部・西部で独特の方言があったり特有のアクセントがあったりするのだ。方言はともかくアクセントは文字に表記されないのでその土地独自のアクセントなのかどうかわかりにくい。数日前にローカル放送局の番組で、アクセントの違いを扱っていた。「服」と「靴」、いずれも静岡人は先頭にアクセントをつけて話す。実は私もそうである。ところが、共通語では後ろにアクセントが来るのだという。番組では街角の人たちに発音してもらって、どこで変化するかを調べていた。それによると、「服」と「靴」に関しては富士川を境に東は共通語アクセント、西は静岡アクセントなのだそうである。

 私は小学校の時に父の転勤のため横浜に転校したが、ちょうど運悪く国語で方言の話がテーマの時で、先生から「静岡の方言を言ってみろ」と言われて非常に恥ずかしい思いをしたものである。そんなことも私が対人恐怖になるきっかけの一つだったのかもしれない。しかし今では方言や地方アクセントは温かみがあっていいものだと思う。だから、前述の番組を見てもアクセントを変えるつもりはない。

 研修医の頃、大原健士郎教授から森田正馬先生のレコードをコピーしたカセットテープをいただいた。森田先生は昭和9年に「神経質講義」をレコードに録音して販売した。軍国主義一色の時代に「生の欲望・死の恐怖」を主張するには相当勇気のいることだったはずである。森田先生は「戦争はくだらないことだと思うが、時の流れを待つのだ」と弟子に語ったそうである。このレコードは当時の価格で1160銭。半年間に売れたのは170枚だったという。興味のある方は「メンタルヘルス岡本記念財団」ホームページの「市民の皆様」ボタンをクリックして「DVD・ビデオ・テープ」をクリックすると「DVD・ビデオ・テープ ライブラリー」のページが表示され、そのページの一番下のニコニコ顔の森田正馬先生の顔写真をクリックすると「神経質講義」を聞くことができる。全部で約6分間である。森田先生も独特の高知アクセントやイントネーションがあって力強さを感じる。勤務先の三島森田病院の森田貞子理事長(正馬先生の甥で養子となった森田秀俊先生の奥様)もやはり高知の出身なので、お話しすると同じアクセントだなあと思う時がある。それもやはりいいものである。

2015年2月 6日 (金)

神経質礼賛 1113.花粉症発症の低年齢化

 これから少しずつ温かくなってくるのはうれしいが、ありがたくない花粉症の季節が始まる。2月に入って天気予報の花粉予報も始まっている。

 数日前の新聞にロート製薬のアンケート調査の結果が出ていて、それによると「子供が花粉症だと思う」とする回答が32.7%にものぼったという。すでに子供の3人に1人が花粉症ということになる。この数字は年々増加の一途だという。また、発症年齢も5歳以下が43.8%であり、この数字も年々上昇していて花粉症発症の低年齢化がうかがえる。その原因として、子供の身の回りが清潔になり過ぎていて免疫力が高まらず、アレルギー反応を起こしやすくなっているのではないかとしている。

 確かに清潔になり過ぎたのも花粉症増加の一因かもしれない。私が子供の頃は学校帰りに外で遊んでいた。まだ自然が残っていたから小川でザリガニを取って遊んだりもした。汚れて帰って親に叱られた経験は私の世代は男の子なら誰でもあった。毎年、寄生虫検査が行われていて、虫卵が見つかった子は虫下しの薬を飲まされていた。それに比べたら今の子供たちは清潔そのものである。サナダ虫やギョウ虫などという寄生虫は姿を消した。本来、細菌や寄生虫から身を守るはずの免疫機能の出番が少なくなっていて、食事が欧米化して肉類の摂取すなわち異種タンパクの摂取が多くなり、花粉やら食物などに過敏に反応してしまうようになったのだろう。

 ともあれ、今年のスギ・ヒノキ花粉の飛散量は昨年より増加が見込まれている。私は1月末から薬を飲み始めて、外出時のマスク着用も続けている。5月の連休明けくらいまでは神経質に花粉対策をして、辛抱の季節である。

2015年2月 2日 (月)

神経質礼賛 1112.イネーブラー

 医学用語ではないがイネーブラー(enabler)という言葉がある。アルコール依存症の相互援助グループAA(アルコホリクス アノニマス)などで使われている言葉である。アルコール依存症者は飲酒による失敗を繰り返す。酔ってケンカをしたり物を壊したりして警察の御厄介になったり、深酒のため翌日の仕事に出られなかったり、飲み代のために借金がたまってしまったり。そこで本人に代わって家族(たいていは妻)が謝って回ったり、お金を払ってあげたり、ということをしてしまうと、本人は何も困らないから、ますますアルコールから抜け出しにくくなるという悪循環に陥ってしまう。家族としては本人のために一生懸命やっているのが仇となってしまうのである。ギャンブル依存症でも同様のことが起きうる。このように本人の問題を本人に代わって尻拭いして、結果的には本人の問題行動や不適切な行動を助長してしまう人をイネーブラーと言う。そこには共依存(289)の心理機制が働く。家族がそれに気づいて軌道修正することも本人の回復のためには必要なことである。

 強迫行為を伴う強迫神経症(強迫性障害)も重症になると家族を巻き込んで確認や強迫行為を手伝わせるようなことになってきて、さらに症状は悪化の一途をたどる。家族(親や配偶者)がいわばイネーブラーになってしまうのである。引きこもりの親子関係にも同じようなことが言える場合がある。御家族に対しては、必要以上に手を貸さず、本人とは適度に距離を置き、パートの仕事をしたり趣味をしたりして生活を充実させることを図った方がよい、とアドバイスすることがある。

 国の外交にも同じようなところがあるのではないだろうか。軍事独裁政権によって苦しんでいる人々のために「人道支援」と称して資金を援助するのはとても良いことをしているように見えるが、そのおかげで軍事独裁政権は国民の不満を軽減して、浮いた民生費の分を軍事費に充てることができるのだから、結果的にはその政権を軍事援助しているのも同然とも言える。わが国は借金ずくめだというのに、やみくもに金をばらまいて軍事独裁政権のイネーブラー役をしてしまうは考えものである。

2015年2月 1日 (日)

神経質礼賛 1111.ありのままで

 1月27日毎日新聞地方版のコラム「香山リカのココロの万華鏡」に「あるがままを軸に、心の分析よりも生活や作業を大切にする治療法」として森田療法のことが紹介されていた。昨年のディズニーアニメ「アナと雪の女王」のテーマソングの日本語版「ありのままで」(原題はLet It Go)にちなんだ内容になっている。アニメの主題歌は人目を気にし過ぎずに今の自分に自信を持とうというメッセージが込められているが、森田療法の「あるがまま」はもう一歩進んで自分を苦しめる不安や恐怖やマイナスの感情も受け入れようと言っている、と香山さんは説明しておられる。森田療法では、負の気持ちもそのまま受け入れ、「それに正面から取り組んずに、まず今やらなければならないことをやろう」と呼びかける、と行動本位を指導することも書いておられる。短いコラムの中で実に的確に森田療法を説明されている。森田療法の関係者も講演会や書籍だけでなく、おりにふれてこのように一般の方に向けてメッセージを出していく必要があるだろう。

 一般の方への森田療法の説明では、ともすると「あるがまま」という言葉が強調され過ぎるきらいがあるように思う。「あるがまま」は印象に残りやすいが誤解もされやすいし、言葉だけで終わってしまうおそれもある。以前にも書いた通り、森田療法は宗教ではないから「あるがまま」をお題目のように唱えていても御利益はない。大切なのは、気分はいじらずにそのままにして、現実に直面して、やらなくてはならないことをやっていく、行動重視の姿勢である。大原健士郎先生は森田先生がよく使った「事実唯真」や「日々是好日」を説明する際にも、行動することに力点を置かれていた。森田療法が入院治療から外来治療が中心になってきたのは時代の趨勢でやむを得ない。入院治療と違って、外来治療では、日常生活の様子を見ることができない。単なる「あるがまま」の言葉だけで終わらず、実際の行動に焦点を当ててアドバイスしていくことが求められている。

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