神経質礼賛 1120.修養と実行
森田療法は精神療法の中では訓練療法に分類されている。自分の「症状」にばかり目が向いてしまう患者さんたちに対して、現実の生活の中で周囲の状況をよく観察しながら周囲の物や人の価値が最大限に発揮できるように行動していくことを指導していく。その結果として、神経質性格を生かして環境に適応できるようになるとともに、気が付けば「症状」は忘れている。そして、それまで症状にとらわれていたものが、社会や家庭や学校で大活躍できるようになるのである。森田先生は「修養は、ともかくも実行である。私に接近し、私の気合に触れねばならぬ。この感化を受ける事を薫陶といいます。この気合で神経質が治るのであります」(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.191)と述べている。森田先生のお弟子さんたちの施設の鈴木知準診療所や三聖病院では入院患者は「修養生」と呼ばれていた。
もちろん、必ずしも入院しなくても、通院しなくても、日常生活の中で修養して治していくことは可能である。
森田先生のもとには外来患者や元入院患者ばかりでなく、著書の読者からの手紙が届くことがよくあって、先生はそれに対して返事を出していた。ある時、強迫観念に悩む店員から、「現在の境遇では修養できない」「今32人の店員がいて、気の合わない者もたくさんいる。時には、なぜ思ったままを怒鳴れないのだろう、何と不甲斐ない男だろうと残念でならない」という手紙が届いた。それに対して森田先生は次のように返事を書かれている。
学生が寄宿舎に同居し、店員が大勢に一緒で、氣の合はない人様々の思はくのある事は当然であります。其處で調和しながら、自分の目的に進むのが、之が実際の修養であります。理想主義、超然主義や隠者やが思想の上や机上論で修養を論ずるのが、大間違ひの元です。こんな事も皆拙著によつて研究してお貰ひする外ありません。怒鳴り得ないのが「すなほ」であり「忍受」であり、人の德の最も大切な事です。 第4巻 p.593
環境に柔順になるのが修養であり、理屈はさておき目的本位に行動することだと森田先生は言っておられる。どこにでも嫌な人はいるし、自分の思い通りにならないのは仕方ない。そんな中で気分本位にならずにやるべきことを地道に積み重ねていくことが大切なのである。
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