神経質礼賛 1140.現在になりきる
私の母は現在83歳である。80までは元気に歩き回り一人で旅行にも行っていた人だが、人工股関節の手術後に総腓骨神経麻痺が残ってしまい、今では歩行困難である。週1回、私が食品類を買って届けているけれども、天気が良くて調子が良い時には杖を片手に一人で400mほど離れた昔風の「市場」へ行って自分が気に入ったものを買ってくる。ラジオの短歌・俳句の番組を聴き、テレビの歴史・美術番組を見るのを楽しみにしている。誰しも歳を取れば持病が増え、種々の機能が衰えていくのは何とも仕方がない。それでも生きている限りは、現在になりきって、使える能力を最大限に発揮していきたいものである。それが「あるがまま」なのではないだろうか。
森田正馬先生も晩年は肺結核に苦しまれ、寝たり起きたりの生活になっていた。自分は熱がある時でも、その熱が重ければ軽い本を読み、軽ければ専門書を読む、と患者さんたちに述べ、さらに次のように語っておられる。
ここの患者たちも、頭痛は頭痛、不眠は不眠、強迫観念でもなんでも、その時どきに応じて、その時どきの現在になりきりさえすれば、それらの病症が皆消失する事を体験する事ができるのであります。
大西君(大西鋭作氏:のちに香川大学教授となる)のように、頭痛も何もないが、ただ勉強する気にならないで悲観するという場合でも、ただその現在になって、気のないままに、その現在の仕事なり読書なりに、ぶつかって、僕が山の坂の中途にある時のように、その境遇に服従して、ただボツボツとやっていさえいれば、必ずいつとはなしに「前に謀らず、後に慮らず」という心境が現れてくるのであります。最も簡単にいえば、なんでもよい。その現在の境遇から逃げる考えを起こしさえしなければ、よいのであります。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.141)
神経症の症状は、不安をなくしたい、完全でありたい、という、いわば「ないものねだり」からくる。生きている以上、不安がなくなるはずはないし、逆に不安が全くないようでは困るのである。
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