神経質礼賛 1160.苦痛になりきる
誰も苦しいことは嫌である。しかし、人生には四苦八苦はつきものでそれをなくすことはできない。思うようにならないことが次々と発生してくる。何の不安なく生活できたらどんな楽だろうか。ところが、不安は次々と浮かび上がってくるものである。それに、よりよく生きていくためには不安は必要なものでもある。森田正馬先生は苦痛について次のように言っておられる。
「なりきる」といふ事がある。苦痛其のものに・なりきれば、「山に入つて、山を見ず」といふやうに、比較する何物もないから、只それきりのものである。然るに「これ位の事は、我慢しなければならぬ」とか、「之では、とても耐(こら)えきれない」とか、苦痛の大小・軽重を比較・批判する時には、其處に苦痛は、客観的に、眼前にありありと現出して、益々耐えられないやうになる。又客観的の表現としては、「苦痛を甘受する」とかいつて、「苦いものを甘く感ずる」といふやうな言語の矛盾にさへも陥る事がある。
要するに吾々は、吾々の精神的事実を表現するに、常に主観即ち自分から観察批判する事柄といふものとの区別を明瞭にする事を忘れては、種々の間違ひの元となるのである。(白揚社:森田正馬全集第7巻 p.348)
苦痛はどうにもならないものと諦めて苦痛そのものになりきる。不安も同様に、不安をなくそうとジタバタしていては、ますます不安は増大してしまう。不安はどうにもならないものとそのままにして、不安なままに行動していくことである。鈴木知準先生が言われた「不安は不安でそれっきり」という不安を相手にしない対処法が一番である。
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