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2015年9月28日 (月)

神経質礼賛 1190.両面観

 神経質人間は、周りに起った出来事を悲観的に見てしまいがちである。それは決して悪いことではない。ワーストケースを考え、そうならないように準備し対処することで、トラブルを未然に防止することができる。楽観的に見てばかりいたら大きな失敗をする。そうは言っても、あまり悲観し過ぎるのも考えものである。一旦は悲観した上で視点を変えて楽観もする、両方の見方のバランスが取れるのが望ましいだろう。森田正馬先生は両面観ということについて次のように語っておられる。


  私も、昔はユートピアを机上論的に思想し空想した。しかし私が神経質療法をしだいに成功して以来、私のユートピアは、今度の私の旅行における心境のように、その時どきの現在における感謝と希望との幸福感の体験であるのである。この故に私は病気の時でも、登山の苦痛の時でも、希望の蹉跌した時でも、私のユートピアがあるのである。「苦楽共存」という言葉があるが、苦楽は「あざなえる縄の如し」ともいい、互いに関連して、取り離す事はできないものである。否それよりも苦楽は、同一事の両面の見方であるといったほうがよいと思う。

極楽と地獄とは、同一事件の表裏の見方である。例えば私が病気である。これは裏から見れば残念であり不幸である。しかるにこれを表から見れば、これでさえも古閑君の保護により、行き先の歓迎により、ともかくも目的を達する事ができる。こんな幸福がどこにあろうか。

遠くへ旅行する。長い日数がかかる。裏から見れば、困難・危険・苦痛である。同時にこれを表から見れば、突破・成功・喜び・楽しみである。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.168


 
 「今度の旅行」とは昭和6年10月、二週間にもおよぶ九州への講演旅行のことである。長時間の汽車や車での移動の疲れもあって、軽い喘息発作や血痰があり、薬や注射器を持って同行した弟子の古閑義之先生が治療にあたった。熊本五高、鹿児島朝日新聞講堂、九大で神経質についての講演を行い、往復とも途中には京都の三聖病院に立ち寄って患者さんたちに講話をされている。さらに各地で観光もしておられた。前年に一人息子の正一郎さんを結核で亡くしたばかりであり、御自身の健康も損なわれていく中で、かなり強行軍の旅行をされた、という状況を考慮すると、前の先生の発言はさらに深みを帯びてくる。単に物事は苦楽両面で見る事ができるというだけではなく、主観的な「苦」よりも目的を達成したという「事実」がそれを上回るのだ、と言いたかったのではないか、神経質性格を活かして「生き尽す」大切さを説いておられたのではないか、と思えてくる。

2015年9月25日 (金)

神経質礼賛 1189.緑茶割に御用心

 夜がだいぶ涼しくなってきた。ニュースで、このところ卵の価格が上昇している一因はコンビニなどでおでんの需要が伸びているためだと言っている。私が住んでいる街には静岡おでんというものがある。牛スジだしの黒いスープに黒はんぺんが入っていて青海苔とだし粉をかけて食べるのが特徴である。また、具材を串に刺してあるのも他のおでんと異なる点である。おでん屋さんの飲物はビールや日本酒の他に、焼酎の緑茶割があって、最近では「静岡割」と称している。そうした飲み方は東京の居酒屋にも広がり、大手焼酎メーカー製の緑茶割焼酎缶も出回るようになった。

お茶の産地・静岡の名を高めお茶の消費を増やしてくれるのは大変ありがたいことながら、ちょっと気がかりなことがある。それはアルコールとカフェインの組み合わせだ。お茶に含まれるカフェインの覚醒作用により、酩酊感が減少して結果的に飲み過ぎてしまうとか、もう醒めたから車を運転しても大丈夫と思ってしまうとか、といった問題を起こす恐れがある。市販の焼酎の緑茶割缶のアルコール度は4%とビールよりもやや低めであり、全然酔っていないと思って車を運転するような人がいたら困る。せっかくのブームに水を差すような発言で申し訳ないが、神経質としては心配になる。「まだまだ酔いが足りない」と飲み過ぎないで良いお酒にして欲しい。それと、少しでもアルコールを飲んだら絶対に運転しないことである。

2015年9月21日 (月)

神経質礼賛 1188.おはぎ

 今、シルバーウイークの連休中である。秋分の日が水曜日で9月の第3月曜日・敬老の日との間の火曜日も休日で4連休になるこのパターンは現行法のままだと次回は11年後の2026年だそうである。

連休の前半、弟が車で帰省していて、今日はこれから一緒に墓参りに行く予定だ。昨日は母を連れて旧実家へ行った。私が毎週1-2回歩いて行って、少しずつ片付けている。今回は母に、捨てる物と運ぶ物の見当をつけてもらうはずだったが、やはりあれもこれも持っていくと言い出して、収拾がつかなくなった。気持ちはよくわかるけれども、「買った時高かった」「まだ使っていない」と言っても今後使う見込みがない物ではゴミと同じである。「見切り千両」なのである。神経質人間は細かい所にこだわって「木を見て森を見ず」になりやすく、全体をよく見てバランスを考える必要がある。母がどうしても持っていくという古着や古い書籍類を車に積み込み、仏壇に供えるように庭に咲いている彼岸花を切って持って行く。

午後1時頃になっていたので、どこか蕎麦屋で昼食にしようということになった。時々食べに行く蕎麦屋へ行ってみると、入店待ちの人たちが並んでいたのであきらめる。家に戻る途中、今まで入ったことのない蕎麦屋を見つける。TVのローカル番組で紹介されたことのある、夫婦でやっている店で、そこに入ってみる。私は鳥汁そば、弟は冷やしたぬきそば、母はもりそばを注文する。鳥汁は鶏肉だけでなくつくねも入っていた。美味しく蕎麦を食べていると、女将さんが「今、ちょうど開店4周年なので、蕎麦粉入りのおはぎか蕎麦味噌をお土産に差し上げています」と言う。母と私はおはぎを、弟は蕎麦味噌をもらう。

自宅に帰ると、妻が遅い昼食を食べ終えたところだった。おはぎを渡すと、「もう少し何か食べたかったからちょうどよかった」と。まさに棚からぼた餅である。小豆あん・きな粉が1個ずつ入っていた。

ぼたもちについては767話に、春がぼたもち、秋がおはぎ、と書いたけれども、実は地方によってはその違いに差があるらしい。小豆あんをぼたもち・きな粉をおはぎ、と呼ぶ地方や、こしあんをぼたもち・粒あんをおはぎ(その逆もあり)、と呼ぶ地方や、大きな物をぼたもち・小さい物をおはぎ、と呼ぶ地方もあるそうで、なかなか面白い。

2015年9月19日 (土)

神経質礼賛 1187.変わった性格の人とうまくやっていくには

 前話に関連して、形外会高知支部での座談会(昭和9年11月5日)の記録から、森田先生が、性格の合わない人にどう対処したらよいか、ということについて語られた部分を引用してみよう。


(変わった性格の人とどうして一緒にやって行かれるか、というある女性からの質問に対して)

 それはなんでもない。思う通り自由にできる事です。私のやり方は、何かにつけて、すべて「感じから出発する」「自然に服従する」という事を会得すればよいのです。(中略)

 それで我々は、人と交際する時に、それが性格が違おうがなんであろうが、自分の直接の感じのままに、好きは好き・面憎いは面憎いで、そのままに交際していけばよい。嫌いだからといって、かならずしも「私は貴方が面憎いから、お断りしておきます」とか、いちいち挨拶をする必要もない。当たらず触わらず、会釈笑いでもしていればよい。この会釈笑いというものは、我々が人に対する社交的の自然の反応であって、自分の心に不快があっても、人と応対すれば、これを隠そうとして、かえって著明に現れる事があるという事は、誰でも自覚し得る事であろう。その自然のままでよいのである。

 それで、面憎いままに、じっと自分の心を持ちこたえている事を、私は「自然の感じのままに服従する」と称します。しかし相手は、同窓生であるから、挨拶くらいはしておいた方がよかろうと考えて、お世辞の一つもいうのを、私は「境遇に柔順」と称するのであります。たったそれだけでよろしい。

 この際に、自分は「人を憎んではならない」「人は愛であれ」「敵を愛せよ」とか、いろいろの教訓を引き合いに出して、我と我心を撓め(ため:「矯め」の意)直そうと反抗するのを、私は「自然の感情に服従しない」と称する。

 これと同時に、自分はあの憎らしいのが、不愉快だから、彼に会う所へは行かないとか、話しかけられても、応対もしないとかいえば、それはわがままであり、「境遇に柔順でない」と称するのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 P568-570


 森田先生の言われるように「私は貴方が嫌いだ」と白黒ハッキリつけたくなるのが神経質の心理である。そして、神経質の「負けじ魂の意地張り根性」ゆえ、ついそれを態度に表してしまう。私は今でも反省することがあるし、若い頃はそれが顕著であって孤立しがちだった。しかし、それでは社会の中で生きていく上で自分にとって不利益になる。例えば、嫌な人に仕事の上で助けられることもあるし、好きな人から足を引っ張られることだってあるのだ。嫌いな人から話しかけられて返事もしないとか、同席しないとかいうのは子供じみた「わがまま」ということになる。好き嫌いの感情はそのままにして、嫌いな人であっても挨拶をし、会釈笑いを浮かべ、状況によってはお世辞の一つも言うのが、大人としての態度であり、境遇に柔順ということになる。

2015年9月18日 (金)

神経質礼賛 1186.転職を繰り返す人(ジョブホッパー)

 外来患者さんの中には転職を繰り返している人がいる。ハローワークの紹介で就職したにもかかわらずブラックな会社で勤務条件が実際にはあまりにも違い過ぎて辞める、というようなケースもあるけれども、意外に多いのが、職場の雰囲気や人間関係が合わなくて辞めてしまうというケースである。あまり転職を繰り返していると採用面接でそれを指摘されて不利な扱いを受ける恐れがある。日本と異なり終身雇用の風習がなくスキルアップの転職がプラスに評価される欧米でも、短期間に仕事を転々とする人をジョブホッパーと呼び、マイナスイメージで見られることもあるらしい。

就職に絶対有利な資格を持つA氏も転職を繰り返している。最初は上司のひどいパワハラに遭ったとのことで、軽いうつ状態になって受診してきた。仕事を休むと症状は良くなった。その後、4回ほど転職した。引く手あまたの職種だからすぐに次の職場が見つかる。しかし、どこも「嫌な人」がいて、出勤できなくなって休職した挙句に辞めてしまうのである。となると、やはり職場の問題というよりA氏自身の問題と言わざるを得ないだろう。

人が十人集まれば、自分と合わない人、あまり一緒に居たくない人が一人や二人いてもおかしくない。自分と合う人だけの職場などありえないのである。人は変えられない。自分を変えるしかない。合わないと思う人でも、職場ではある程度は自分の方から合わせて行く努力を続ける他はないのである。境遇は思ったようにならないものだ。うまくいかないからといって、人のせいにして人を恨んでもどうにもならない。森田正馬先生の言われた「自然に服従し境遇に従順なれ」(828話)の通りである。

2015年9月14日 (月)

神経質礼賛 1185.国勢調査インターネット回答

 先週の夜、町内会長さんが「国勢調査インターネット回答の利用案内」という封筒を配っていた。今回はパソコンやスマートフォンを用いたインターネット回答が可能になり、後日それをしなかった世帯に調査員が手書き用紙を配布して回収するというやり方である。年金などの個人情報漏洩が問題になっている昨今であるからどうしようか、とも思ったが、ネット回答してみることにした。やってみると、パソコンでは10分もかからず、手書きよりも楽だった。母の所へもやはり案内が配られていたので、それも入力しておいた。調査員に見られることもなく簡便である。

 とはいえ、気になるのは税金の無駄遣いである。最初、検索で「国勢調査」を調べて、総務省統計局の「国勢調査2015キャンペーンサイト」というページを見た。しかし、回答ページへのリンクは見当たらない。仕方なく、URLを直接入力して回答サイトに入った。キャンペーンサイトと称する、タレントや元スポーツ選手とかが大きく映し出された単なる宣伝ホームページは何の役にも立たない。こんなもののために多額の税金を浪費しているのだ。TVでもCMを流していて、新聞や雑誌にも宣伝しているという。予算はあるだけ全部使ってしまえ、とばかり馴れ合いの大手広告代理店に丸投げして、多額の税金を使ってCMやホームページを作成しているのである。近頃、事業仕訳がなくなったら、税金の無駄遣いし放題なのではなかろうか。

 そんなことを考えていると、最近、財務省が言い出した、消費税10%増税時の食品分の還付方法とやらが頭に浮かぶ。消費者が食品を買う時に「マイナンバー」のカードを持って行き、そのデータを集計して個別に税金を還付するという。そのセンター建設に3000億円もかかる。その後の運営費だってベラボウにかかるだろう。大勢の公務員を雇わなければならい。個人業者にもカード読み取り機を設置するために多額の補助金を出すことになる。税金を増やしてそんな無駄遣いをしよう、というのは実に馬鹿げている。何のための増税なのか。第一、国民全員がマイナンバーカードを身分証明書代わりにいつも持ち歩かなければならない。紛失・盗難の問題が必ず発生する。そのカードを悪用したなりすまし・不法入国者への転売といった犯罪も起るだろう。そんなに国民総背番号制を強行したいのか。将来、国民全員の体にICチップを埋め込んで家畜のように管理したいのだろうか、と勘繰りたくなる。

 どれもこれも「ものそのものになっていない」、事実を無視して空論に走る、無責任なお役人様たちの発想である。「教育の弊は人をして実際を離れて徒らに抽象的(空論に)ならしむるにあり」という森田正馬先生の色紙がある。国民生活の実態からかけ離れ、組織の現場からも乖離した頭でっかちのエリート上級公務員たちが国を動かしているようでは世の中良くならない。

2015年9月11日 (金)

神経質礼賛 1184.赤外線体温計

 外来通院している人が「昨日から熱っぽい」と言うので、看護師さんに「体温計を持ってきて下さい」と頼むと、新しい見慣れない体温計を持ってきた。どうやって使うのかと思ったら、額の近くに持って行き、ボタンを押すと、ほぼ瞬時にピ!と鳴って、計測終了。これは便利だ。さっそく試しに自分の体温も測ってみる。

赤外線体温計は以前から耳孔に当てて測るものがあったが、測定値にバラツキがあった。また、鼓膜の温度を測定するので腋下温より高めの値になってしまう。新しいこの非接触式のタイプならば、寝たきりや意識レベルが低下している人の体温チェックも容易に手早くできるし、接触せずに測定できるのは院内感染防止の上でも意義がある。私は神経質ゆえ、腋下で測るにしても従来の電子体温計を消毒せずに使い回すのは、HPV(イボのウイルス)などの常在微生物の感染が少々気になっていたから、実にスグレ物だと思う。

値段を聞いたら8000円ほどするとのこと。家庭用血圧計の倍の値段では、一家に一つ、というわけにはいかない。まだまだ高価だけれども、現在主流のサーミスタ(温度によって電気抵抗が変化する素子)式電子体温計が普及したのと同様、だんだん生産台数が増えれば安価になって、いずれはこのタイプの赤外線体温計が主流になるに違いない。こういう技術の進歩はありがたい。

2015年9月 7日 (月)

神経質礼賛 1183.吉田松陰と森田先生の関係

 母に頼まれて書店で「NHKラジオ歴史再発見」のテキストを買って届けた。『松陰と幕末・明治の志士たち』というテーマだった。すると、その日のうちに母から電話があって、「森田正馬先生のことが書いてあるよ」とのこと。吉田松陰と森田先生とは関係はないはずだが、おかしいなあ、と思って、後日、そのテキストを見せてもらったら、森田先生が形外会の場で吉田松陰について語った部分を引用しているものだとわかった。その部分の前に井上(常七)氏が「ある人の著書には、明治維新は、吉田松陰の功績ではない。世の中の事情から、自然にそうなったのである。という事があったが、実際はどうでしょうか」と質問したのに対する森田先生の答えであった。


 
 すべての現象は、それに対するすべての事情条件がそろわなければ、その結果は現われない。滝の水が落ちるのも、毛細管の水が上に昇るのも、みな種々の条件がそろっての事である。時代と英雄と両方の条件がそろわなければ、維新は起こらないのである。(中略)

 徳川の三代将軍ごろに、吉田松陰が出ても、維新は起こらないし、ペルリが来ても、吉田松陰の思想が宣伝されなかったら、維新は成立しなかったであろうと思われる。(白揚社:森田正馬全集第5p.118-119


 
 吉田松陰と森田先生とは直接関係はないが、松陰が重視した陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」という考え方は実際の行動を重視する森田療法と重なる部分もあるかもしれない。このテキストの著者は長谷川勤さんという吉田松陰の研究家である。中学を卒業して就職したが定時制高校さらには夜間の早大社会学部で勉強された。サラリーマンを定年退職してからは吉田松陰の研究に力を注ぎ、松蔭大学で教鞭をとっておられる。それにしても、森田正馬全集を読み、そこから引用されているところを見ると、神経質な方なのではないだろうか。神経質を活かして人生二毛作。すばらしいことだ。形外会の副会長を務め、のちに独学で公認会計士となって開業し『神経質でよかった』という著書を書かれた山野井房一郎さん(660661662)を思い起こす。

2015年9月 6日 (日)

神経質礼賛 1182.ひっつき虫

 草取りをしている時に、ふと、近頃は「ひっつき虫」を見かけなくなったなあ、と思う。「ひっつき虫」と呼ばれる植物の種は子供の頃にはよくあって、友達同士で投げあったものだ。小学校への登校には「薩摩土手」と呼ばれる土手を歩いていた。家康の命で安倍川の治水のために薩摩藩が造った土手である。今では石碑が建てられて綺麗に整備されているが、当時は土手の両側は草むらで、横に小川が流れていたから、子供たちにとっては絶好の遊び場だった。遊んでから家に帰ると衣服に「ひっつき虫」がくっついていることに気付くことが多かった。ここで入手した「ひっつき虫」を学校で投げ合って遊んだりもした。一番上等な「ひっつき虫」は多分オナモミという植物の種で、長さ1-1.5cm位の楕円形をしていた。小さなトゲトゲが一面についていて、それで衣服にひっつくのである。これは日が経っても茶色く変色するものの崩れることはない。ただし、これを入手できることは少なかった。草むらで衣服にくっつくヌスビトハギは小さくて平たいので、投げるのには適さず、遊びには使えなかった。センダングサ(たぶん外来種のアメリカセンダングサ)は、花が咲いた後に緑色のミニプラグ状の形の実になって、これはオナモミ以上にどこでも手に入り、よく投げるのに用いた。後ろからやってきて「おはよう」と声をかけて追い抜きざまにこの「ひっつき虫」を巧みに付けていく悪友もいた。この「ひっつき虫」はタチが悪く、くっついたことに気付かずに長期間経ってしまったり、うっかりポケットに入れっぱなしにしたりすると、茶色く変色してバラバラになって微小な棒状の「ひっつき虫」が多数発生して、それを一つずつ剥がすのは大変で、神経質を要することだった。

 雑草にも栄枯盛衰がある。外来種のセイタカアワダチソウが増殖してススキが絶滅かと言われた時期があったが、近年ではセイタカアワダチソウは減少傾向でススキが復活しつつあるという。前述のオナモミも今では絶滅危惧種であり、外来種のオオオナモミに取って代わられているそうである。

2015年9月 4日 (金)

神経質礼賛 1181.過剰診断・過剰薬物

 8月下旬の読売新聞のコラム「医療ルネサンス」に独協医大越谷病院教授の井原裕先生の記事が出ていた。井原先生については当ブログでも「双極性障害と疾患喧伝」(745話)で紹介している。米国精神医学会による精神疾患の診断基準DSMが1994年に改訂されてDSM-Ⅳとなった時点で双極Ⅱ型障害という病名が登場した。従来の典型的な躁うつ病に比べると大きく診断の幅が広がった。さらなる改訂版のDSM-5にも引き継がれている。そして、製薬会社が新型抗精神病薬や新型抗てんかん薬の気分安定作用に着目して双極性障害への適応を取得すると、盛んな疾患喧伝が繰り広げられるようになった。その結果、安易な過剰診断が行われて薬物療法が行われ、副作用のためにかえって状態を悪くしてしまうという問題も起きているという現状がある。

 井原先生は「寝不足で元気が出なかったり、感情の起伏が激しくなったりするのは自然な反応で、それを病気だと騒ぐ医者こそが問題だ」と批判し、患者さんには規則正しい生活リズムを送るよう指導して、不要な薬は少しずつ減薬していく、といった治療を行っておられる。軽度の気分の浮き沈みは誰でもあるし、冠婚葬祭や生活上の大きな変化がある時には大きな気分変動があっておかしくない。気分が落ち込んで食欲が落ちて体重が激減して仕事にならないとか、気分が高揚して浪費に走ったり周囲の人とのトラブルが多発したりしているとかいうのだったら薬物療法は必要だが、程度が軽いのであれば、安易に病名のレッテルを貼って薬を処方するのはいただけない。まして、神経症の治療にむやみに薬を処方するのは害の方が大きい。そういうことにムダな医療費を浪費するのも問題である。

 以前にも紹介した通り森田正馬先生は、次のように言っておられる。

 「病といへば薬」といふ事は、古来よりの習慣に捕はれた謬想である。病の治療といふ事には、多くの場合、薬は単に医療の補助とするのみである。服薬を必要としない又は其有害な場合は甚だ多い。(中略)今日「病といへば薬」といふ病人と医者との関係から、多くの患者が徒に無用の薬を吞まされて居るといふ事は、既に心ある人々はよく知って居るべき筈である。総てこんな関係から受くる損害は、患者自身の頭の上に降りかゝつて来るのである。(白揚社:森田正馬全集 第7巻p.203

 医療に携わる者は肝に銘じるべき言葉だと思う。

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