神経質礼賛 1190.両面観
神経質人間は、周りに起った出来事を悲観的に見てしまいがちである。それは決して悪いことではない。ワーストケースを考え、そうならないように準備し対処することで、トラブルを未然に防止することができる。楽観的に見てばかりいたら大きな失敗をする。そうは言っても、あまり悲観し過ぎるのも考えものである。一旦は悲観した上で視点を変えて楽観もする、両方の見方のバランスが取れるのが望ましいだろう。森田正馬先生は両面観ということについて次のように語っておられる。
私も、昔はユートピアを机上論的に思想し空想した。しかし私が神経質療法をしだいに成功して以来、私のユートピアは、今度の私の旅行における心境のように、その時どきの現在における感謝と希望との幸福感の体験であるのである。この故に私は病気の時でも、登山の苦痛の時でも、希望の蹉跌した時でも、私のユートピアがあるのである。「苦楽共存」という言葉があるが、苦楽は「あざなえる縄の如し」ともいい、互いに関連して、取り離す事はできないものである。否それよりも苦楽は、同一事の両面の見方であるといったほうがよいと思う。
極楽と地獄とは、同一事件の表裏の見方である。例えば私が病気である。これは裏から見れば残念であり不幸である。しかるにこれを表から見れば、これでさえも古閑君の保護により、行き先の歓迎により、ともかくも目的を達する事ができる。こんな幸福がどこにあろうか。
遠くへ旅行する。長い日数がかかる。裏から見れば、困難・危険・苦痛である。同時にこれを表から見れば、突破・成功・喜び・楽しみである。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.168)
「今度の旅行」とは昭和6年10月、二週間にもおよぶ九州への講演旅行のことである。長時間の汽車や車での移動の疲れもあって、軽い喘息発作や血痰があり、薬や注射器を持って同行した弟子の古閑義之先生が治療にあたった。熊本五高、鹿児島朝日新聞講堂、九大で神経質についての講演を行い、往復とも途中には京都の三聖病院に立ち寄って患者さんたちに講話をされている。さらに各地で観光もしておられた。前年に一人息子の正一郎さんを結核で亡くしたばかりであり、御自身の健康も損なわれていく中で、かなり強行軍の旅行をされた、という状況を考慮すると、前の先生の発言はさらに深みを帯びてくる。単に物事は苦楽両面で見る事ができるというだけではなく、主観的な「苦」よりも目的を達成したという「事実」がそれを上回るのだ、と言いたかったのではないか、神経質性格を活かして「生き尽す」大切さを説いておられたのではないか、と思えてくる。
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