神経質礼賛 1210.迷いの心
神経症の患者さんの中には症状について長々と書いたものを持ってくる人がいる。そのエネルギーたるや凄まじいもので、それを仕事に充てれば随分のことができるはずであり、しかも注意が外に向けば症状も軽減すること請け合いである。
森田正馬先生のもとに、便箋38枚に細かい字で書かれた手紙を送ってきた人がいた。頭内朦朧感・頭痛・疲労感・不眠・心悸亢進・疾病恐怖などを長々と訴えていた。それに対して森田先生は次のように返事を書かれている。
正しい理解は、病にかゝりはせぬかといふ心配は、其の病にかゝりたるよりは、非常の幸福であるといふ事です。迷ひの内にあるものは、こんな平凡な事が分らず、其心配が、皆無になつてしまへば、もっとよい。いやサラリと心配が無くなつてしまはまければならぬといふ風に、無理な強情をはるのである。若しこの「本当の病よりは、心配の内が安全である」といふ事に氣がつけば、それが小生の「自然に服従し、境遇に柔順なれ」といふ事の初めで、其病の治る端緒となるのであります。(白揚社:森田正馬全集第4巻 p.545)
そして、入院治療を受けるか、あるいは家庭の幸福のために自身を犠牲にして職業にいそしむのが、解決法である、としておられる。森田先生は、大久保彦左衛門著『三河物語』の冒頭にある「迷いの中の是非は是非とも非なり 夢の中の有無は有無とも無なり」という言葉(白揚社 森田正馬全集第6巻p.48)を患者さんの指導に使われた。夢については260話に書いた通りである。迷い・・・強迫観念のため頭の中が無限ループに陥っていてはフリーズ状態と同じである。そこから脱却するには、理屈は置いておいて、手足を動かして仕事をすることである。それは森田先生の言われるように一挙両得ということになる。
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