神経質礼賛 1216.養生訓(2)
養生訓は単なる健康法・病気予防法というだけではなく、老年期の生き方を提言しているところに価値がある。「長生きすれば、楽しみ多く益が多い。日々いままで知らなかったことを知り、月々いままでできなかったことができるようになる。だから学問が進んだり、知識が開けたりするのは、長生きしないとできない」と益軒は言う。老化すると心身ともに衰えていくと誰もが考えがちだが、いくつになっても進歩することができる、という老いを肯定する考え方は画期的である。
前回述べたように貝原益軒は83歳の時にこの書を書き、同じ年に妻を看取り、翌年に自らの死を察知して自分の棺桶を注文し「自分は儒者であるから僧侶は呼ばなくてよい」と死後の段取りを指示して亡くなっていったと言われる。若い頃は数多くの病気に苦しんだがその後は長く健康を保ち、死の直前までできることをやり抜いて、人生の幕を下ろしたのは見事としか言いようがない。「己の性(しょう)を尽くし 人の性を尽くし 物の性を尽くす」の通りに神経質性格を活用して生き尽したのである。
もちろん、彼のように病気知らずの老年期を過ごせるとは限らない。いくら摂生していても、がんをはじめとする大きな病気に見舞われることだってあるだろう。歳とともに体の不具合箇所は増えていく。それでも、「時々自分の体力でつらくない程度の運動をする」「楽しんで毎日を暮らす」といった益軒のアドバイスは心身の健康な部分を伸ばしていくということで有用である。その点は、悪い所探しをしないでできることをやっていく、気分本位でなく行動本位にして、より健康的に生きて行こうという森田療法の考え方にも通じるのではないかと思う。「年をとってから後は、一日をもって十日として日々楽しむがよい。つねに日を惜しんで一日もむだに暮らしてはいけない」・・・まさに、日々是好日(50話)、日新又日新(141話)である。
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