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2015年12月28日 (月)

神経質礼賛 1219.旧実家最後の日

 昨年まで母が一人で住んでいた旧実家の片付けをこの1年、休日の大部分を使って続けてきた。車が入れない小路に面した広い庭のある家なので、作業は困難を極めた。年内一杯で明け渡すことになっていて、その作業もついに終わる。私が小学校6年の時に建て替えた家も半世紀近く経ち、外壁塗装などのメンテナンスを怠っていたので雨漏りや床の剥がれなどがあって住めない状態になってしまった。さらに問題は、母があれこれ溜め込んだ物品が屋内に溢れ、内部はゴミ屋敷に近い状態だった。最も多かったのが紙類。大量の本や雑誌はまだマシで、チラシの裏に書いたメモ類、新聞や雑誌の切り抜き、講座で配布されたプリント類、レシート、封書やハガキ、電気ガス等の検針票・引き落とし通知、などの「雑紙」。大きさがまちまちで縛って出すのが難しく、ほこりをかぶっていて、燃えるゴミの袋に入れるとかなりの重量になる。茶道具、使わない景品類や置物の類、御祝・御見舞などのお返しのタオル・シーツ類も長年溜め込んで大変な量だった。古い衣類も「毛糸をほどしてまた使える、汚れものを拭くのに使える」と称して積んでいたから、私が小学生の時に来ていたセーターまで残っていた。昭和ヒトケタ、物がなくて不自由した時代の人だから何でも取っておきたい気持ちはわかるが、「見切り千両」である。患者さんの中にも強迫神経症のために物が捨てられない、という人がいる。何年か使わないものは必要になる可能性は極めて低いのだから、「時間」を基準にして取っておくか捨てるか判断するのが間違いない。それをやらないで処分や片づけを先送りし続けるとゴミ屋敷になってしまうのである。

 あさっては有休を取ったので、最後に持ち出す物品を運び出し、長年見慣れた家に別れを告げようと思う。かつて父が植えた3本の夏ミカンの木にはたわわに黄色い実がついている。旧実家最後の日、お寺にも行って父の墓参りをするつもりだ。

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コメント

わたくしもまだ部屋の明け渡しが済んでおりません。完全ゴミ部屋であります。22年前に入った時に持ち込み、そのまま開けなかったダンボール箱が5,6個あります。
「見切り千両」の合理性と思い出の感傷が複雑にぶつかります。
 夏みかんとのお別れはさぞお辛かったでしょう。

たらふく様

 コメントいただきありがとうございます。

 捨てるべきか捨てざるべきか、まさに葛藤ですね。仰るように、合理性と感傷のせめぎ合いです。でも、やはり10年、20年使っていないということはなくてもよい物ということになります。心を鬼にして捨てた方がスッキリする場合が多いでしょう。私も、母が捨てられずに取っておいた物を捨てるのに心が痛みましたがやむを得ないことです。

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