神経質礼賛 1240.捨鉢と向上心
ある時、森田正馬先生のところに、強迫観念に悩み「今の自分は生ける屍のようだ。いっそボルネオの山に行って土人たちの中で暮らして修養したい」と訴える店員から手紙が送られてきた。それに対して森田先生は次のように返事をされている。
「今の私は生ける死屍の如き」といふやうな言葉は神経質の不満の捨鉢の言葉であって、全く意味をなさない事です。こんな事を一々答へなければならぬ小生こそ、よい面の皮です。小生とすれば、これも職掌柄と往生するより外ありません。即ち「生ける屍」とは何の氣もない無神経の事であつて、君の如き向上心に燃えて居る火のやうな、血みどろの煩悶がどうして死屍でありませう。燃える火は活力であり灰になってこそ死屍であります。余り八つ当りの不平をいはずに、現在の君の境遇に最善をお尽くしなさい。君は神経質の特徴として、人に対しては、今にも仕事が全くできず、現在の位置を捨ててしまいそうな口吻をもらしながら、実は一人前以上の仕事が出来て、而かも現職に恋々として、決して農園や山やへ思ひきり出かけられるものではありません。(白揚社:森田正馬全集第4巻 p.594-595)
そして、「山の中で修養する」というような空想や迷論はやめて、現在の自分の仕事の中で売場の装飾の工夫や接客の仕方などに気を配っていくようにと指導されている。
私たち神経質人間は物事を悲観的に考え過ぎて、ともすれば「もうダメだ」「自分は生きていても仕方がない」というような結論を出してしまうことがある。しかし、そうした捨鉢は神経質人間が持っている強い「生の欲望」の向上心の裏返しなのである。あの天下人・徳川家康でさえ、長い人生の中で何度か「もうダメだ」と切腹しようとして、菩提寺の住職や家臣から説得されて思いとどまったことは当ブログや拙著に紹介してきた通りである。神経質人間はワーストケースを予測するので、もうダメだと思いながらももう少し進んでみれば、そこからは外れて大丈夫になってくるものだ。将棋の大山康晴十五世名人の名言(元は実業家の大原総一郎から大山名人に贈られた言葉)「助からないと思っても助かっている」の通りなのである。ピンチはチャンス。「もうダメだ」と思った時は「ダメでもともと」と踏ん張って行動してみることだ。すると道は開けてくる。
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