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2016年3月28日 (月)

神経質礼賛 1250.君子は和して同ぜず

 森田正馬先生のところに患者さんや全治者や雑誌「神経質」の読者が集まる月1回の形外会では神経質の話をするだけでなく、余興をしたり落語家を呼んだり時にはピクニックに出かけたりとレクリエーションも行われていた。だんだん軍国色が強くなっていく時代だったが、森田先生は次のように言っておられる。


 
 せんだって、朝日新聞の「鉄箒(てつそう:戦前の朝日新聞投書欄の名称)」に盆踊りを攻撃する説があって、「この非常時に、一方には、夜も寝ずに働いている工夫(こうふ)もあるのに、盆踊りなどとは、ふざけた事だ」というような意味のことを書いたものがあった。この様なことをいうものは、単なる傍観者で、ただその外観による毛嫌いというにとどまる。実際に町でやっていた盆踊りには、試験勉強の学生や、終日忙しく働く小僧なども、これに加わっているのを見た事がある。実際に自分がその仲間に入って、踊ってみると、傍観したとは全く違った心持で、疲労も回復し、不機嫌も直って、自ら爽快になるのである。

 孔子の言葉に、「君子は、和して同ぜず、小人は同じて和せず」という事がある。偉い人は人の意見を尊重して、いたずらにこれを排斥せず、しかも自分の意見は持っている。下等の人は、人が何かいえば直ちにそうかと思いながらも一度は争ってみる。偉い人は衆議に服従するけれども、自己の見識は動かない。下等な人は自分の見識はなくて、いたずらに屁理屈をいって、自己の存在を目立たせようとする。

 盆踊りでも、あっさりと和して、一緒に踊ればよいのである。強いて自分が高くとまり、白眼視して・すましているのもおよばぬ事である。同じなくとも和するところに、社会的の平和安穏があるのである。

〔座談会は十時近くまで続き、再び会員の余興、東京音頭・木曾節・佐渡おけさなどの盆踊りがあり、先生たちも、そろいの浴衣に、そろいの赤手拭いの頬冠りで、ともにお仲間入りされ、踊り連中が、にぎやかに踊れば、傍観の会員、我もわれもと釣り込まれて、ひとしきり盛んに踊りたるのち、山野井副会長閉会の辞で十時半過ぎ散会した。〕(白揚社:森田正馬全集第5巻p.412-413


 
 孔子の言葉の意味は、「すぐれた人物は人と仲良くはするけれども安易に同調はせず自主性を失わない、つまらない人物は安易に同調するが心から親しくなることはなく自主性にも欠ける」といったところである。神経質人間はともすると「和せず同ぜず」に陥って孤立しやすい。特に対人恐怖や強迫観念に悩む人はその傾向が強い。森田先生が形外会の場で余興や盆踊りを行ったのは神経質者が社会によりよく適応していくための教育だったと考えることもできるだろう。

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