神経質礼賛 1257.森田正馬先生と将棋
森田正馬先生は大変な将棋好きだった。神経質の負けず嫌いから、お若い頃は負けると勝つまで何番も指すというようなところがあったそうだ。晩年、持病の悪化のため臥床するような時にもよく弟子の佐藤政治先生と指していた。森田先生は臥床していても玄関に誰が来たかわかるように鏡をセットしてあったから、逆に佐藤先生も森田先生の様子を見て病状を察して、将棋を指さずにそのまま帰ることもあったという。森田先生遺品の将棋盤と駒は弟子の高良武久先生が受け継ぎ、さらにその弟子の大原健士郎先生の手に渡っている。
森田正馬全集(白揚社)第7巻の最後にある「我が家の記録」から将棋に関する記録を抜き出してみよう。
昭和三年九月二十一日、山内豊範公ヲ官幣社トスルニツキ委員トシテ相談会ニ華族会館ニ出席。宴後、仙石大臣ト囲碁、黒ヲ取リ一敗ス。次ニ山内子爵ト将棋三勝ス。
昭和四年三月二十四日、午後上野寛永寺ニ将棋会ニ行ク。来会者五百人余。余ハ十六級ニテ二番負ケ、又初段ノ人ニ六枚落ニテ負ケタリ。二十九日、将棋四級ノ人ト金銀ニテ勝チ、金銀桂一ニテ負ク。十八級位ナリトノ事。
これを見ると、森田先生も五十代半ばにして大きな将棋大会に参加されたことがわかる。六枚落ちとは上手が飛車・角と桂馬2枚・香車2枚を落とす大きなハンデを付けての対局である。金銀落ちは今では行われていない。現代では簡単にアマ初段の免状が取れるようになったけれども、この時代の初段はめったにおらず、よほどの強豪であって、稀少価値からすれば今のアマ四段・五段に相当するだろう。森田先生の棋力も現代だったら5-7級クラスというあたりだろうか。滅法お強いわけではなかったが、いろいろな人たちと対局され、病床でも楽しんでおられ、実によい趣味だったと言えよう。
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