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2016年5月30日 (月)

神経質礼賛 1270.練習ではない、実際である

 山野井房一郎さん(660662)は森田先生のところに入院して書痙と対人恐怖が治っただけでなく、形外会の副会長を務め、神経質に悩む人たちにアドバイスしていた。山野井さんの親類に22歳の男性がいて、不潔恐怖と対人恐怖のため4年間ひきこもっていた。しかし、父親が亡くなって自分も何とかしなければ、という気持ちになり、アドバイスに従って外に出るようになって、対人恐怖は少しずつよくなってきた。さらに学校を受験する気になり、山野井さんが付き添って学校へ行くことになった。駅で降りたが道がわからない。本人は自分で巡査に聞くのが嫌なので山野井さんに聞いてほしかったようだが、山野井さんは学校名を言って巡査に教えてもらうように言ったので、仕方なく聞いて、無事に学校へ行くことができた。青年が「今のは練習ですか」と質問するので、「決して練習などではない。やむを得ない必要の事である」と答えた。この話を形外会で披露した山野井さんは、「神経質はすぐ物を逆に考える癖がある」とまとめている。それに対して森田先生は次のようにコメントしておられる。


 
 山野井君の話で面白いのは、練習かと問うた事である。練習ではない、実際である。入院中の人でも、いつもこれと全く同様の心掛けの人が多い。例えば夜の仕事に、雑巾さしをしたとしても、すぐこれを運針の練習になるとかいう風に考えたがる。ちょっと心掛けがよさそうで、実は極めて馬鹿げた事である。雑巾はただこれを使うがためである。飯を炊く。練習になったとか、患者の日記に書いてある。よっぽどおかしい。高等教育を受けた人びとが、入院わずか四十日ばかりの期間に、飯炊きや運針の練習をして、この人は果して、将来どんな仕事をする人になるつもりであろうか。入院修養の目的は、「事実唯真」を会得し、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」という事を実行するので、結局は自分自身のベストの適応性を得る事である。やたらに飯炊きの練習をされては、毎日これを食わされる者が迷惑である。兼好法師のいってある事に、弓をひく者が、矢を二つ持ってはいけない、必ず一つの矢で射なければ、二つの矢を試す気になって、真剣にならないから、結局二つともあたらないという事がある。試すとか手習いするとかいう事がいけないのである。この練習練習という事が、今日教育上の大なる弊害の一つである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.203


 
 その後も森田先生は練習と実際が一つになることの重要性を繰り返し述べておられる(340話)。神経質人間は頭でっかちになりやすい。そして、まず練習してできるようになってから本番に臨もうとしがちである。しかし、どうせ練習だという気の緩みがあっては力を十分に発揮できないし、その程度の練習を長時間続けたところで効果は薄い。何気ない日常生活の中の仕事どれもが練習ではなく実際(本番)であって、神経質を発揮する場なのである。理屈ではなく、ものそのものになって、必要な仕事に取り組んでいく人はどんどんよくなっていく。

2016年5月27日 (金)

神経質礼賛 1269.揚げ足取り

 森田正馬先生は東京帝国大学卒業後、巣鴨病院(現在の都立松沢病院)に勤務していた。当時はそこに東大精神科の医局があった。現在のような抗精神病薬がなく、薬はかろうじて鎮静剤があった程度の時代である。森田先生は日本の精神医学の祖と言える呉秀三教授の指導を受けて作業療法を取り入れて当時としては先進的で開放的な治療を行っていた。規則正しい生活と作業はのちの森田療法のベースにもなっている。しかし、森田先生も苦労した「変質者」の患者が二人いて、「絶エザル不平ト難題トヲ持チカケラレ、余ハ苦痛ノ余リ或時ハ巣鴨病院ヲ辞職センカトサヘ思ヒタル事モアリキ」だったそうである。今で言えば重度のパーソナリティ障害ということになろうか。ガラスの薬瓶を投げつけられて危ない目に遭ったり、組み伏せられて腰を叩かれたりしたこともあったという。森田先生の後任として同じ呉門下生の石田昇医師が男子部主任になった。彼はこうした人達を聖書の言葉で訓戒しようとした。森田先生は「之ヲ聞キテ同君ニ訓戒ノ無効有害ナルヲ注意シタリシガ、果シテ其訓言ハ逆ニ應用サレテ却テ自ラ攻撃サルヽノ具トナリタルナリ」(白揚社 森田正馬全集 第7巻 p.777)という結果になったという。人の言葉尻をとらえ揚げ足を取るような人に対して、言葉だけの力で問題行動を是正することは極めて困難である。

 私もそのような入院患者さんを担当して苦戦することがある。朝、出勤するのに気が重いことさえある。しかし、逃げるわけにはいかない。「黙って今日の草鞋(わらじ)穿く」(887)である。何とも仕方がない。出光佐三(689895)のように、「気に入らぬ風もあろうに柳哉」を思い浮かべ、ひるむ心に鞭を打って家を出る。スタッフの皆さんと力を合わせてやっていけば必ず何とかなると信じて。

 ところで、前出の石田昇(18751940)は森田先生より1歳若く、極めて優秀な精神科医だった。29歳にして『新撰精神病学』という精神医学の教科書を著し、schizophrenia(統合失調症)の訳語を分裂病とした。わずか31歳にして長崎医専(長崎大学医学部)教授に就任する。ところが、40歳を過ぎてアメリカの名門ジョンズ・ホプキンス大学留学中に自身が統合失調症を発病。幻聴と妄想に基づいてアメリカ人の同僚医師をピストルで射殺し、死刑判決を受ける。のちに終身刑に減刑されて日本に送還され、かつて自分が勤めた松沢病院に入院し、結核のため亡くなっている。たとえ専門家であっても自分が精神病になってしまうと病識がないということなのである。

2016年5月23日 (月)

神経質礼賛 1268.勝手に「昇天」(windows10)

 このところ職場で、パソコンが勝手にwindows10に更新されてしまったという話をよく聞くようになった。そんなことはないだろうに、と思っていた。職場で使っている私のパソコンにもしばしばwindows10への更新を促すポップアップが表示されていたが無視しているから大丈夫だと思っていた。ところが、先週の金曜日、パソコンを使っている最中に病棟から呼び出されて30分ほどして戻ってみたら、何と勝手に更新が始まっていた。中断して何かトラブルがあっては困るし、10に更新しようかどうかと考えているところだったから、そのまま更新されるのを待った。結局2時間以上パソコンが使えなくなってしまった。その後、わけもわからないまま設定を行う。ブラウザはIE(インターネットエクスプローラ)からエッジというソフトに変わっていた。従来のIEの「お気に入り」は移行できた。慣れるまで時間がかかりそうではあるが、windows8よりはマシな感じはする。

 それにしても、いきなり勝手にアップグレードして10(テン)にしてしまう(これぞ「昇天」?)のは困る。急ぎの仕事をしている最中にそうなったら、仕事を中断せざるをえないわけでずいぶん強引なやり方である。ユーザー軽視もいいところであり、無償とはいえ、いきなりやられたら怒る人もいるだろう。調べてみると、更新予約のポップアップ(カウントダウン表示)が出た時すぐに×を押して消してしまわずに「あとで」を選択してその中のアップグレード予約取り消しを選択する必要があったらしい。気が付かずにそのままにして、自動昇天させられてしまった方も多いのではないだろうか。同じ日の夜、自宅のパソコンにも同様の更新カウントダウン表示が出たので、予約取り消しにしておいた。こちらは使い慣れたwindows7だし、パソコンの寿命もあと3、4年だろうからそれまでは維持したい。

 windows10についてはバックドアの存在が指摘されている。Microsoft側からパソコンの内容を見ることができるようになっている。一説には犯罪捜査への利用のため当局からの圧力があったのでは、とも言われるが、真偽のほどはわからない。当然、そこを狙ったウイルスが作られる危険性がある。windows10は一種のスパイウエアであるから重要な個人情報や仕事上の機密情報はwindows10パソコンには入れない方がよいということもささやかれている。いやはや、大変な時代である。便利で多機能になればなるほど危険も増える。利用するにあたっては、そのリスクにも注意を払う必要がある。神経質スイッチをONにしておこう。

2016年5月20日 (金)

神経質礼賛 1267.病識

 私は民間の精神科病院に勤めているので、幻覚妄想状態にある統合失調症の患者さんや躁状態の患者さんの入院をよく受けている。時には他の人に危害を加えたが、支離滅裂なことを言っているから精神病らしいということで、警察官に連れて来られる人もいる。どういうわけか私が担当する人には身長180cm以上体重100kg以上のヘビー級男性がよくいて、小柄な私は上から見おろされてしまい、「このニセ医者め!ぶっ殺してやる!」などと目の前で怒鳴られると、ハラハラドキドキ、いや正直言って内心パニック寸前である。こうした患者さんたちは病識(自分が精神病であるという自覚)がなく、幻覚や妄想も実体験として感じているため、なかなか治療に乗ってくれず、一苦労である。

 それに対して神経症では、過度に自分が病気だと考えている人が少なくない。そして、症状を消そうと治療を求め過ぎるきらいがある。しかし、症状をなくそうとすればするほど精神交互作用(注意集中→感覚の鋭化→意識の狭窄→注意集中→・・・)の悪循環によって却って症状を悪化させることになるのは森田理論が説くところである。症状はいじらずに日常生活の中で次々と仕事を探して行動していくうちに、気が付いたら症状から解放されているのである。現代ではICD(WHOによる診断基準)やDSM(米国精神医学会による精神疾患の診断基準)によって不安障害として診断し、SSRIなどによる薬物療法を行うのが主流となっているが、結局はモグラ叩きであり、根本的に治せるわけではない。また、脚光を浴びている認知行動療法も大変有力ではあるが、症状を消そうとするため症状の有無に一喜一憂してしまい、かえって症状へのとらわれを深めてしまうこともありうる。一方、森田療法では症状を問題とせずに健康的な部分を伸ばしていこうとする。「神経質は病氣でなくて、こんな仕合せな事はありません」(白揚社:森田正馬全集第4p.386)という森田先生の診立ては実に画期的であり、他に類を見ない。

2016年5月16日 (月)

神経質礼賛 1266.アレグリアス

 一昨日は午前の仕事を終えてから千葉県八千代市にある霊園へと向かった。大手町から東西線・東葉高速鉄道の直通快速電車で約40分の八千代中央駅から歩いて6分ほどのところにある。バラのガーデニング墓地はおりしも色とりどりのバラたちが美しく咲いていた。義妹が亡くなってからちょうど2年。命日に当たるこの日の亡くなった午後3時に親族・友人たちが集まってお墓参りをした。三回忌ということになるが、僧侶は呼ばず、墓の近くに設置された焼香台で順に手を合わせた。小さな墓石には義妹が大好きでよく口ずさんでいたアレグリアス(Alegrias)の出だしのところの楽譜が刻まれている。焼香が済んだところで義妹が通っていたフラメンコ教室の先生が踊りの動作を交えて情熱的にそれを歌ってくれた。アレグリアスの名はALEGRIA(喜び)からきているのだそうである。義妹も喜んでくれる最高の供養かと思う。

すでに書いたように、義妹が亡くなったのはフラメンコ教室からの帰り、自宅近くの駅においてである。この駅は住民からの反対運動にもかかわらずカメラで監視して安全が確保できるとして無人化された。目の不自由な義妹はホームから転落して反対側からの列車にはねられて亡くなった。安全を守るはずの駅のカメラは故障していたとのことでビデオ画像は残っていないので何が起きたのか不明なままである。義妹の死をきっかけに多くの人々が鉄道会社に対して安全対策を求める声を上げてくれて、ホームドア設置は果たせなかったものの音声案内装置の設置という一応の進展をみた。安全を守るためにはハードウエアの整備だけでなく、常に安全に気配りする姿勢が必要である。ちょっとくらい大丈夫、という気の緩みが事故を招く。安全確保には神経質が欠かせないのである。

2016年5月13日 (金)

神経質礼賛 1265.自動車税

 例年、5月の連休明けくらいに自動車税納税通知書が送られてくる。昨年、車を買い替えて、排気量が小さくなったので、少し安くなっているかと思って封筒を開けてみる。すると、今回はわずか9000円になっていた。グリーン税制のため排気ガスが少ない車種は登録後初回に限って大幅減税になるということをすっかり忘れていた。うれしい誤算である。環境への影響が少ない車は税金を安くする、というのは良いことではある。反面、ガソリン車だと新車登録後13年以上、ディーゼル車では11年以上の場合は自動車税を割高にするというのは、自動車業界の意向を受けてなのか、まだ使える車でも新車に買い替えさせようという意図を感じてしまうし、使える車を廃車にしてしまうのは本当にエコなのか疑問でもある。

 神経質の小心者ゆえ、いろいろな支払いの請求が来るとすぐに払わないと気持ちが悪い。朝、駅で降りて職員送迎の病院車が来るまでの間に駅前のコンビニに寄って支払う。アルバイトの男性店員さんが「自動車税はいつもこの時期なんですよね。よく払い忘れる人がいて、6月とか7月に持ってくる人がいて困るんですよ。そういう人は役所へいって怒られるといいんですよ」などと長々と話しかけてくる。神経質の場合、その心配は無用である。最近、新聞のビジネス本の広告欄に「三流は借金は悪と考える、二流は時には借金は必要と考えすぐに返す、一流はとことん限界まで借りなかなか返さない」とあるのが目についた。確かに借金も資産であり、上手に運用してさらに儲けることもできるわけで、一流の人は支払いはギリギリまで先延ばしにするということなのだろう。私にはとても真似はできない。三流の小者で結構だ。神経質には神経質の良さがある。

2016年5月 9日 (月)

神経質礼賛 1264.負けの味

 5月7日(土)の毎日新聞に「名作の現場」という記事があり、今回は平家物語をテーマとしていた。名作の舞台となった地を訪ねる案内人はエッセイストの酒井順子さんで、今ぞ知る「負け」の味、という見出しが目を引いた。若い頃は「勝」「上」「進」を求め上昇志向であるが、歳を取るにつれ挫折を味わわざるを得ず、敗者への親近感を抱くようになる。平家物語は大人のための話であって、負けること、滅びることを前提としているこの物語は、負けることを存分に味わうための書である、という酒井さんの解釈にはうなずける。

 もう少し前の貴族全盛の時代に作られた、華麗な王朝文学と思われがちな源氏物語にしても、出世や恋の世界で勝利して頂点を極めた光源氏が老いとともに因果応報とも言える辛酸を味わいついには愛する人を失い出家を志して亡くなっていく、という流れを考えると実は同様なのかもしれない。

 神経質人間は負けず嫌いであり、失敗したことをいつまでもクヨクヨ嘆きがちである。しかしこれは悪いことばかりではない。家康公遺訓に「勝つことばかり知りて負けることを知らざれば、害その身に至る」とあるように、うまくいった時のことばかり考えて都合の悪いことは忘れて反省しないようでは同じような失敗を繰り返してしまうであろうし、敗者への思いやりに欠けた自己愛のかたまりのような人間になってしまう。負けを味わい負けを知ることも必要である。それに、どんな人でも生きている以上、老・病・死からは逃れることはできない。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と豪語した藤原道長(413話)でさえ、晩年は糖尿病やその合併症に苦しみ、パニック発作に悩まされたことは以前に書いた通りである。誰しも歳を取れば思うにまかせないことは増える一方である。そんな中でも「生の欲望」に沿ってできることを積み重ね、生き尽くしていくのが、森田的生き方の真骨頂なのである。

2016年5月 6日 (金)

神経質礼賛 1263.さざれ石

 5月3日の休日にどこかへ出かけてみようと思った。そうだ、以前、神経質の偉人として白隠禅師(拙著p.237)のことを書いていたから白隠さんゆかりの寺・沼津市原にある松蔭寺へ行ってみようと思い立った。調べてみてガッカリ。毎年4月29日に寺に収蔵されている白隠禅師の書などを公開しているのだそうで、ちょっと遅かった。それでも思いついたのだから、と気を取り直して出かけた。

 まずは三島駅東海道本線上りホームの桃中軒の立ち食いソバで腹ごしらえ。この上りホームには下りホームや新幹線ホームの店にはない限定メニューがある。注文を受けてから揚げる「エビと野菜のかき揚げソバ・うどん(450円)」だ。待ち時間2分で揚げたてのサクサク・ホクホクの天ぷらが載ったソバが食べられる。おいしくいただいて、塩分を気にしながらついつい汁も半分位飲んでしまう。食べ終わってから下りホームに移動する。

 電車は行楽客でとても混んでいた。たまたま先頭車両の一番前のドアから乗った。運転士さんの近くに立つ。運転士さんの前方右には発着予定時刻や制限速度が記載されたシートが掲げてある。よく見ると発着時刻は1分刻みではなく15秒刻みで書かれている。運転士さんは信号や踏切を確認し、時々そのシートを確認しながら運転している。まさに四方八方に気を配りながらの運転である。安全で正確な運転には神経質が欠かせない。

 三島から3つ目、原の駅で降り、旧東海道を東へ歩いて松蔭寺までは10分ほどだ。途中に白隠生誕地の碑や産湯の井戸がある。煩悩の数108枚の石瓦を頂く山門をくぐると、本堂からは法事の読経の声が聞こえてきた。境内を散策する。白隠禅師の教えに感銘して良寛さんが書いた句碑、百体地蔵、すり鉢松などを見る。その後、寺の外の小道から中庭の「さざれ石」を見て写真を撮る。近くにいた老尼僧が「そこの門(通用口)を開ければ入れますよ」と言って下さったが、いくらなんでも不躾なのでお礼を述べるにとどめた。

 さざれ石(細石)とはあの君が代の歌詞に出てくるさざれ石のことである。細石が巌(いわお)となる、という歌詞は非科学的じゃないか、と考えがちだが、石灰岩が雨水で溶解してできた成分が石の間に入って固まって長い年月で天然のコンクリート状の巌ができあがることは実際にあるのだ。そうした巌となったさざれ石は全国あちこちの神社に祀られている。松蔭寺のさざれ石はなかなか大きく立派な巌であり、ありがたいパワーストーンかも知れない。そして私たちも取るに足りない細石のような日常の些細な努力を積み重ねていけば、やがてはそれらが巌となりうるのである。

2016年5月 2日 (月)

神経質礼賛 1262.パラダイスは何処に

 昨年あたりから新聞記事に下流老人とか老後破産といった嫌な言葉が目につくようになった。サラリーマンを定年退職して貯金が3000万円あっても老後破産の心配がある、いや3500万円でも危ない、とかいった記事を読むと、それほど貯金はないし退職金も期待できない自分の場合どうなってしまうのだろうか、と心配になる。送られてくる「ねんきん定期便」を見ると、65歳になった時に自分が受け取れる基礎年金プラス厚生年金の老齢年金額は月あたり約12万円らしい。それに妻の国民年金分を加えれば、車を手放して切り詰めた生活をすればどうにかやっていけそうに見えるけれども、定期的にかかる外壁塗装や水回りの改修など家のメンテナンス費用は数百万単位の出費になるから貯金を取り崩すことになる。そして、病気になればさらに出費は増えるし、要介護の状態になって施設に入らなくてはならなくなると一人当たり月20万とか25万円以上かかるだろうから老後破産は決して他人事ではない。

 現在、毎日新聞朝刊の連載小説は介護や老後の経済問題を扱った林真理子の「我らがパラダイス」である。平凡な生活が親の病気や認知症発症をきっかけに急激に破綻していく様子、その一方で富裕層向けの高級ホテルのような施設の有様、が対比的に描かれていて、ついつい読んでしまう。

 神経質ゆえ先のことが心配にはなるが、どうにもならない。働けるうちはできる限り働き、無駄を減らして、日常生活の中でささやかな楽しみを見つけていく。そこにパラダイスがあるのではなかろうか。

2016年5月 1日 (日)

神経質礼賛 1261.山の中の施設

今日は特に予定がなく天気がよいので、母にどこか行きたいところはないかと聞いたら「お義姉さんのところへ行きたい」と言うので、水見色という山間部にある老人施設へ向かった。  

街中から車で45分くらいかかる。初めて行く場所だし、このところ山道を運転していなかったので、狭路のすれ違いはハラハラドキドキである。後ろから飛ばしてくる車には先に行ってもらう。狭い所では手前で待って対向車が通るのを待つ。茶畑が多く、鮮やかな新緑が美しい。案内板のおかげで迷うことなく施設に着いた。

受付でエレベータの暗証番号を教えてもらい、伯母のいる2Fへ上がる。ホールには20人ほどの入所者がいたが、どこにいるのかわからず、職員に聞いてソファに座っている伯母を見つけた。両膝を悪くして歩けなくなり、認知症も進んでしまって、いつも無表情で、子供たちの顔もわからなくなってしまったと聞いていたが、今日は機嫌も良さそうで、「○○(息子の名前)さんはよく来てくれますか」と問うと、「うん、よく来てくれるよ」と話を合わせてくれた。母が「何か欲しいものがあったら持ってきますよ」と言うと、「別に何もいらないよ」と答えた。介護はよく行き届いている様子ながら、入所者同士の会話はなく、良い意味での刺激が乏しいから、ますます言葉を忘れていきそうである。

伯母と別れて廊下を歩いている時に、「私もこういう所に入るのかねえ」と杖を突きながら母が言う。「やれるところまで今の家で生活してもらうよ」と答える。そういう私だって歳を取ったらどうなるかわからないのである。

山を少し下った所にその地区の物品を売る店があってのぞいてみる。草餅とかよもぎ饅頭があったら買おうと思ったがあいにく売り切れである。一旦、母を家まで送った後、出直して街でよもぎ饅頭を買って届けた。風薫るこの季節、草餅やよもぎ饅頭が美味しい。邪気を払うだけでなく、元気も出そうである。

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