神経質礼賛 1270.練習ではない、実際である
山野井房一郎さん(660-662話)は森田先生のところに入院して書痙と対人恐怖が治っただけでなく、形外会の副会長を務め、神経質に悩む人たちにアドバイスしていた。山野井さんの親類に22歳の男性がいて、不潔恐怖と対人恐怖のため4年間ひきこもっていた。しかし、父親が亡くなって自分も何とかしなければ、という気持ちになり、アドバイスに従って外に出るようになって、対人恐怖は少しずつよくなってきた。さらに学校を受験する気になり、山野井さんが付き添って学校へ行くことになった。駅で降りたが道がわからない。本人は自分で巡査に聞くのが嫌なので山野井さんに聞いてほしかったようだが、山野井さんは学校名を言って巡査に教えてもらうように言ったので、仕方なく聞いて、無事に学校へ行くことができた。青年が「今のは練習ですか」と質問するので、「決して練習などではない。やむを得ない必要の事である」と答えた。この話を形外会で披露した山野井さんは、「神経質はすぐ物を逆に考える癖がある」とまとめている。それに対して森田先生は次のようにコメントしておられる。
山野井君の話で面白いのは、練習かと問うた事である。練習ではない、実際である。入院中の人でも、いつもこれと全く同様の心掛けの人が多い。例えば夜の仕事に、雑巾さしをしたとしても、すぐこれを運針の練習になるとかいう風に考えたがる。ちょっと心掛けがよさそうで、実は極めて馬鹿げた事である。雑巾はただこれを使うがためである。飯を炊く。練習になったとか、患者の日記に書いてある。よっぽどおかしい。高等教育を受けた人びとが、入院わずか四十日ばかりの期間に、飯炊きや運針の練習をして、この人は果して、将来どんな仕事をする人になるつもりであろうか。入院修養の目的は、「事実唯真」を会得し、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」という事を実行するので、結局は自分自身のベストの適応性を得る事である。やたらに飯炊きの練習をされては、毎日これを食わされる者が迷惑である。兼好法師のいってある事に、弓をひく者が、矢を二つ持ってはいけない、必ず一つの矢で射なければ、二つの矢を試す気になって、真剣にならないから、結局二つともあたらないという事がある。試すとか手習いするとかいう事がいけないのである。この練習練習という事が、今日教育上の大なる弊害の一つである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.203)
その後も森田先生は練習と実際が一つになることの重要性を繰り返し述べておられる(340話)。神経質人間は頭でっかちになりやすい。そして、まず練習してできるようになってから本番に臨もうとしがちである。しかし、どうせ練習だという気の緩みがあっては力を十分に発揮できないし、その程度の練習を長時間続けたところで効果は薄い。何気ない日常生活の中の仕事どれもが練習ではなく実際(本番)であって、神経質を発揮する場なのである。理屈ではなく、ものそのものになって、必要な仕事に取り組んでいく人はどんどんよくなっていく。
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