神経質礼賛 1305.井伊直虎と直政(2)
天正二年(1574)、虎松(のちの直政)は井伊谷に帰還。この時、遠江国は徳川家康の支配下になっていた。翌年、直虎は虎松を伴って浜松城で家康に面会し、虎松は万千代の名を与えられ家康の小姓として取りたてられる。その後、万千代は目覚ましい出世をとげていく。当然、古くからの家康の家臣たちからは妬まれた。それでも家康は「どうか井伊万千代に手柄をたてさせてやってくれ」と公言していたという。万千代は小柄な美少年だったため、この贔屓ぶりから家康の「愛人」説が昔からある。しかし、家康は万千代にかつての自分を重ね合わせて見ていたのだと思う。名家の一人息子「プリンス」でありながら、親を殺され、幼い時から自分の身も危険にさらされて転々とする不安定な日々、自分を命がけで守ってくれた親族や家臣たち、そして禅寺で学んだ日々。松平家嫡男が代々用いる「千代」の名を与えたのも、自分の分身という強い思いがあったからだろう。著者の梓澤要さんは、家康の正室・築山殿の母が実は直虎の大叔母にあたり、築山殿や長男・信康と血縁関係があったことを指摘している。
天正十年(1582)、本能寺の変が起き、家康が堺から脱出して伊賀を越えて三河に帰還した際には万千代も同行していた。この年に直虎が亡くなり、万千代は元服して直政を名乗る。その後も直政は家康の期待に応えて戦の時には先頭を切って武田遺臣の赤備え軍団を率いて戦い武功を上げ、家康の関東移封の際には上野国の十二万石を与えられる。また、政治能力や外交能力にも優れていた。後世、徳川四天王と称せられる存在となる。関ヶ原の戦いでも大活躍したが、島津勢を追撃中に鉄砲で撃たれて落馬。この時の傷が元で翌々年に亡くなっている。直政の子孫は代々彦根藩主として栄えたが、井伊家の繁栄は直虎の名リリーフがあってのことである。
直政は寡黙で自分に厳しく人にも厳しかった。負けず嫌いでもあったが、周囲への気配りは抜群だった。さらに、恐妻家であったことを考えると、家康と同様、神経質性格だったのではなかろうかと私は考えている。
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