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2016年12月30日 (金)

神経質礼賛 1340.叱ること・叱られることも必要

 森田正馬全集第5巻に掲載されている形外会の記録は森田先生が亡くなる1年前の昭和12年4月に行われた第66回で終わっている。前半は強迫について参加者の体験談が中心になっていて、高弟の古閑義之先生も御自分の体験を語っておられ興味深い。これについてはまた紹介したい。その後で、参加者の一人がつい子供にどなりつけていけない、と述べたことについて森田先生が話をされている。子供を叱ることもある程度は必要だということで、次のように続けておられる。


 
 神経質の患者には、子供の時から親に叱られた事がないというのが割合に多いが、これもいけない。社会に出て、あるいは人の世話になるとかいう時にも、ちょっと叱言や不親切にも、たちまち精神的の打撃を受けて悲観し・憤慨し・邪推し・ヒネクレるという風になる事が多い。

 丁度、親から惰弱の養育を受けて、寒い風にも当たらず・不消化物も食わないとかいうようなものが、ちょっと変わった境遇にあっても、少しも身体の抵抗力がないと同様に、精神的に惰弱の養育をうけたものは、少しも外界の境遇の変化に適応する強い精神力がないのである。

 面白い事には、母親が気が強くて子供に思いやりがなく、ムチャな事をいって叱り飛ばし、かわいそうな仕事をさせたような子供が、兄弟そろって出世し・偉くなっている人の事を私は知っている

 これはしかし、その子がもし変質性のものであった時には、そのためにますます悪化したかも知れないけれども、良き素質のものである時は、これが鍛錬教育になって、ますます精神的に強い人間となる事かと思うのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.767-768


 
 叱るということ(25)、叱られるということ(26)、については初期の記事に書いている。私は戦後生まれだけれども、子供の頃は学校の先生から拳骨を食らったり体を叩かれたりしたことはある。友達と外で遊んでいて日が暮れてから帰宅したら、母親から「お前は安倍川の橋の下で拾ってきた子なんだよ」と言われて家に入れてもらえないこともあった。今で言えば体罰や言葉の暴力にあたるであろう。子供の人権は大切だが、何でもかんでも児童虐待やハラスメントとして糾弾するのはどうかと思う。例えば、危険な悪ふざけに対して「やめようね」では効果がないし、危険を回避できない可能性もある。ほめて伸ばす教育も必要だろうけれども、そればかりでは、森田先生が言われたように過保護のために適応能力が身に付かないのではないだろうか。「適応障害」という病名のカルテが増える一方の昨今、子供の頃に適度に叱られることも必要だろうと思う。

 私の師の故・大原健士郎教授は毎週の教授回診中に研修医を叱り飛ばすことで有名だった。カルテで頭を叩かれた研修医もいた。医師の診断・治療は患者さんの人生を左右する。それだけにしっかり勉強して全力を尽くして診断・治療に当たれ、という厳しい指導だったのである。今ではこういう教授はいない。


 本年も当ブログをお読みいただきありがとうございます。神経質ゆえ、月
10話書かなければと強迫的に続けているうちに、気が付けば12年目に突入です。(四分休符)

2016年12月26日 (月)

神経質礼賛 1339.クリぼっち

 一昨日、仕事を終えて帰宅する途中、街は大変な人出だった。駅からつながっているデパートの地下は買物客でごった返していて、レジ待ちの長い行列も目についた。クリスマスイブが土曜日と重なったからだろう。夜のニュースを見ていたら「クリぼっち」という聞き慣れない言葉が使われていた。クリスマスを一人で過ごす人のことを言うらしい。小さい子供がいる人やカップルならばクリスマスプレゼントを買う。一緒に過ごす相手がいないお一人様が増えている昨今、そうしたクリぼっちをターゲットにした商戦が盛んになっているのだそうだ。デパートでは自分一人用の小さなケーキ、自分へのプレゼントの売り込みに力を入れているというから、あの混雑の何割かはクリぼっちが支えていたのだろう。カップル入店禁止という飲食店もあるというのは驚く。晩婚化・少子高齢化が一層進んでいくことは明らかだから、年々こうした商戦はヒートアップしていくことだろう。

 かくいう私も、週末は妻が父親の世話のために実家に泊まっているので、今年はクリぼっちの一人である。もっとも、病棟のクリスマス会で楽器を弾いた後に患者さんや職員さんたちと乾杯してきた。スパークリングワイン風のグレープサイダーを小さな紙コップでいただいた。サイダーのボトルといい、紙コップといい、ちょっと見は本物そっくり。患者さんからは「ワインなんて飲んじゃっていいんですか?」という驚きの声が上がった。一人ずつに供されたフライドチキン・ポテトとケーキを患者さんたちは楽しんでいた。職員さんたちは少しでも患者さんたちに喜んでもらうための創意工夫をこらしているのである。私もその楽しさのお裾分けをいただいた。

2016年12月23日 (金)

神経質礼賛 1338.生死事大 無常迅速 光陰可惜 慎勿放逸

 前々話、大徳寺聚光院と臨興院を拝観した後、同じ大徳寺の大慈院にある泉仙(いずせん)という精進料理の店に入ったと書いた。この店の料理は鉄鉢(てっぱつ)料理と言って、托鉢僧の鉢の形を模した朱塗りの椀に入れた精進料理が次々と出てくる。野菜と豆腐・湯葉を使い優しい味付けでなかなか美味しい。面白いことにこの椀は入れ子になっていて、最後にきれいに重ねられるのである。また、箸の包み紙も興味深い。右側に「有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け」と書かれている。これは修行中の一休さんが師の公案に対して答えた言葉であり、有漏路とは煩悩(迷い)の世界、無漏路とは仏(悟り)の世界を意味し、これにより一休の号を師から賜ったとされている。さらに、包み紙の中央には「生死事大 無常迅速 光陰可惜 慎勿放逸」と書かれた木版(もっぱん)の絵がある。生とは何か死とは何か・いかに生きるべきかを明らかにするのが究極の課題である、すべては無常であり時間はあっという間にすぎてしまうのだから無駄に過ごしてはいけない、といった意味になろうか。

 何ともドッキリする言葉である。不安をなくすための「はからいごと」に終始している人、強迫観念で頭を空回りさせている人や確認行為や手洗いなどの儀式で時間を無駄遣いしている人には強烈な鉄槌になるだろう。私も毎日をその日暮らしで生きていていつもジタバタしていて少し閑になると放逸しがちな情けない自分を反省するばかりである。と言いながら、明日は病棟のクリスマス会で楽器の演奏を急に頼まれて、気安く引き受けてしまい、あわてて準備している自分がいる。悟れなくてもどっこい生きている。これでいいのだ、と開き直る。

2016年12月19日 (月)

神経質礼賛 1337.源光庵

 今回、もう一つ行こうと思っていたのがやはりこの秋JR東海が宣伝していた源光庵だった。大徳寺から西へ佛教大学まで歩き、バス停の時刻表を見ると、バスが来るまで20分位待つことになる。待っていては寒いので歩いて行くことにした。途中には京野菜を売っている店や漬物屋さんがあって、のぞいて見るのも楽しい。まっすぐ坂を上って行き、道が二手に分かれる突き当りが源光庵である。

すでに紅葉のシーズンは終わっていて楓の木はすっかり裸になっていた。拝観者はほとんどいない。紅葉が綺麗な頃は大勢の参拝客で賑わったことだろう。手持無沙汰に受付に座る僧がぶっきらぼうに拝観料を告げ、「血天井があります」と言う。関ヶ原の戦の前哨戦、伏見城の攻防の際、切腹して果てた鳥居元忠ら徳川勢の武士たちを慰霊するため、血の付いた床を天井に残したものであり、養源院など京都のいくつかの寺院にあるものだ。ここの血天井も足跡がしっかりと残っていた。有名な四角い「迷いの窓」(生老病死の四苦八苦・人間の生涯を示す)と丸い「悟りの窓」(禅と円通の心・大宇宙を示す)を見る。花も紅葉もなかりけり。隣の小学校から昼休みに遊ぶ子供たちの元気な声が聞こえてくる。これもまたよし。徒然草の「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」である。

 源光庵前からバスに乗り、終点の四条大宮でバスを乗り換えて東山七条へ。京都国立博物館で生誕400年伊藤若冲の展示を見る。小規模ながら、普段あまり展示されないものが出展されているとのことで面白かった。まだ時間があったので、昨年行った時に見なかった豊国神社の宝物館を見てから帰途についた。

2016年12月18日 (日)

神経質礼賛 1336.聚光院

 公休日に京都の大徳寺聚光院へ行ってきた。駅や電車にある「そうだ京都行こう」の写真パネルを毎日見ているうちに、ぜひ狩野永徳による障壁画の実物を見たいと思ったからだ。聚光院は今年創建450年にあたり、普段は博物館に保管されている国宝の障壁画を里帰りさせて特別公開している。拝観はネット予約で、空き状況をカレンダーから見て空いている時間帯に予約を入れるというやり方になっている。拝観時間は40分間。予約は20分おきで、1回あたり定員は15名位らしい。1か月前に予約を入れた。

 大徳寺は中学の修学旅行でその中の塔頭の大仙院へ行ったきりである。コンパクトによくまとまった枯山水庭園、そして当時まだ若かった住職・尾関宗園さんの気合いの入った説法が強烈に印象に残った。「今頑張らずにいつ頑張る!!」と修学旅行生たちに喝を入れておられたのを思い出す。不安はそのままにして今を生きることを説く森田療法も禅の教えと共通する部分がある。

予約の時刻は朝一番の9時だった。8時に京都駅に着く。京都駅から大徳寺までバスで行けるけれども、もし渋滞で遅れたら困るので、まず地下鉄で北大路まで行く。地上に出てバス乗り場を探すが見当たらない。どうやら地下にバスターミナルがあるらしく、あわててまた地下へと潜る。バスに乗ってしまえば大徳寺前はすぐである。22もの塔頭がある境内はとにかく広い。あらかじめプリントアウトしておいた地図を見ながら聚光院に20分前に着いて受付の開くのを待つ。足から寒さが伝わってくる。受付をして建物に入ると、手荷物はすべてお預りします、とのことで係員に手渡す。ガイドの人の案内で拝観していく。永徳の「花鳥図」は博物館や美術館で見るのと異なり、自然光が差し込み磨かれた木の床に反射している中で見るとタイムスリップして見ているような感がする。「琴棋書画図」とも永徳がまだ24歳の時の作で力強さが伝わってくる。面白かったのが永徳の父・松栄による「竹虎遊猿図」だった。虎はどこかユーモラスである。そして猿の一家は狩野家を表しているのだそうだ。木の上の目立つ白猿は松栄の父で狩野派の画法を確立した元信を示している。木の下には茶色の夫婦猿が座っていて、雌猿が白い小猿を抱っこしている。この小猿は大天才・永徳で、ちょっと冴えない表情の雄猿は松栄自身だという。自分の父そして息子の狭間で目立たない存在になってしまっているが、どうして、なかなか良いではないか。拝観コースは茶室の中を見学し、最後に千住明による現代の障壁画「滝」を見た。群青と白だけの大迫力の画だった。

聚光院を後にし、さらに期間限定で公開している興臨院も最終日に拝観することができた。そのすぐ近く大慈院の泉仙という精進料理の店に入る。通路から見える名残の紅葉が美しかった。

2016年12月16日 (金)

神経質礼賛 1335.USBケーブル

 データのバックアップ用として新たに購入したポータブルHD(ハードディスク)の調子が悪い。USB3.0対応2TBのもので使い始めて間もないというのに、パソコン側から認識できなくなったりデータ転送途中で止まってしまったりでどうにもならない。よく見るとHDに差し込んだケーブルが緩くてグラグラしている。もし、HD本体の受け側に問題があるとしたらアウトだけれども、ケーブルの端子に問題があるのなら、ケーブルを交換するだけで解決するはずだ。試しに今までメインで使っていたHDのケーブルと交換してみるとグラつきはなく、問題なく使える。

 家電量販店で探してみたが同じタイプのケーブルは見つからなかった。仕方なくアマゾンで調べてみると、同じUSBケーブルと言ってもこれだけ種類があったのかと驚く。以前はUSBケーブルと言えば、パソコンやUSBハブなどで多用されるAタイプ同士のケーブルか、プリンタやスキャナのUSB端子に繋ぐBタイプの2種類くらいのものだった。高速のUSB3.0になってもAタイプの形状は同じで、内側がブルーになって違いを示すだけである。ところが周辺機器の種類が増えるに従い、端子の種類が増えていった。デジタルカメラ用のミニUSBには5pinと8pinの2種類がある。据え置き型HDなどの機器に接続するBタイプのUSB2.0用と3.0用は全く形状が異なる。最近のポータブルHDなどの小型機器にはマイクロBがよく用いられている。これがまたUSB2.0用と3.0用では形状が異なり、3.0用は接続部分が薄く長いので、外からの力に弱そうである。さらに最近はUSB3.1という規格ができて、上下左右反対に挿入しても問題なく作動するCタイプもあるということだ。

種類を間違えて買ってしまったら全く使えず無駄になる。ここは神経質に確認する必要がある。通販だと現物を見ることができないので、写真を拡大してよく見てから注文した。また、50cm程度の短いケーブルだと機器を動かした時に力が端子に加わりやすいから、ゆとりを持って1mの長さのケーブルにした。届いたケーブルを使ってみるとポータブルHDは問題なく作動し、一件落着である。

2016年12月12日 (月)

神経質礼賛 1334.管理会社変更

 9月の中頃、突然、「重要」と赤字で書かれた封書が送られてきた。子供用に借りている学生アパートの管理会社が変わったので、9月末までに家賃や管理費は新しい管理会社の口座に払い込むように、旧管理会社の火災保険は無効なので新たに指定の火災保険に加入するように、保証人の手続きを改めてするように、というものだった。子供にメールしてみると、特にそんな通知はないし、アパート内に掲示もないとのこと。神経質ゆえ、振り込め詐欺ではなかろうか、と疑った。

 従来の管理会社に電話で問い合わせてみる。すると、詐欺ではなく本当だと確認できた。新しい管理会社を検索して調べてみると、創業わずか8年で急成長している。ということはオーナーに安い管理料を持ちかけて次々と契約を取っているのだろうと推測される。転売されたわけではなさそうで、アパートのオーナー名は個人名から有限会社の法人名に変わっていて、新しい管理会社が節税対策として入れ知恵したのだろう。

 まだ入居してわずか半年なのに迷惑な話である。新しい管理会社に電話する。入居時に保証人は立てずに信用協会を利用したが、また手数料を払うのはバカバカしいので妻を保証人にすることにした。また、子供が加入している大学生協の学生総合共済に火災も保証されているので、それを主張して新たな火災保険には入らないことにした。いろいろ面倒だったが、出費は最低限に抑えることができた。また、入居時に払った火災保険料も前の管理会社から月割で返金されてきた。新しい管理会社としては、2カ月間は銀行振込、その後は口座引き落としで順調に入金されていてそれで満足したのか、3カ月経っても保証人の手続き書類を送ってこない。

 ネットで調べると、マンションやアパートが転売されて管理会社が変わったりすることはよくあることらしい。その時に家賃アップといったことも起きやすい。また、管理会社変更を装った振り込め詐欺も実際にあるので、あわててお金を振り込まずに現在の管理会社や大家さんに確認してみることが重要だということだ。神経質に対応するに越したことはない。

2016年12月 9日 (金)

神経質礼賛 1333.ベゲタミンの離脱症状

 1281話に不眠症の薬であるベゲタミンが今年一杯で販売中止となることを書いた。この薬は配合剤であり、主成分はフェノバルビタールという古くからあるバルビツール酸系の睡眠薬・抗てんかん薬である。それに少量の抗精神病薬クロルプロマジンとその副作用止めのプロメタジンが配合されている。通常の睡眠薬ではどうしても効果が得られない患者さんに使用されていた。また、睡眠薬は欲しがるが抗精神病薬は嫌がるような精神病患者さんに投与されていた面もあった。しかし、バルビツール酸系の薬は耐性がつきやすく、習慣性や依存性の問題がある上、過量服薬で死亡する危険性がある。私は研修医時代から極力この薬は新たに処方しないようにし、すでに服薬している患者さんを引き継いだ時には少しずつ減量・中止していくように心がけていた。だから、今回の販売中止の件は私の担当患者さんには全く影響がなかった。しかし、医師の中にはこの薬がお好きな先生がいて、患者さんの不眠の訴えに応じてベゲタミンが追加・増薬されてきたケースがある。その先生も調剤薬局や事務員から今後ベゲタミンは処方できなくなると言われて慌てて減量や中止を始められた。そうした患者さんたちから夜間電話がかかってきて当直中に起こされる羽目になる。「ベゲタミンが減ったら眠れなくて困る」「足がビリビリして困っている」といった訴えがあり、これらは明らかに離脱症状と考えられる。ベゲタミンの添付文書には「適応上の注意」の項に、「連用における投与量の急激な減少ないし投与の中止により、不安、不眠、痙攣、悪心、幻覚、妄想、興奮、錯乱又は抑うつ状態等があらわれることがあるので、投与を中止する場合には徐々に減量するなど慎重に行うこと」と書かれている。

 ベゲタミンに限らず、どんな睡眠薬にも多かれ少なかれ問題点はある。不眠に対しては森田正馬先生が言われたように安易に薬で対処するのではなく、生活習慣を見直すのが最善の処方箋である。

2016年12月 5日 (月)

神経質礼賛 1332.パンジー

一昨日の土曜日からまたもや3日連続当直である。12月とは思えない風もなく暖かい日が続いている。先日、麓まで雪化粧した富士山も秋の装いに戻ったように見える。外来待合室に面した白砂の庭に枯葉が溜まっていたので、昨日は午後の空いた時間に枯葉拾いをしようと出てみた。病院の正面玄関の両側はコキアに代わって白木の板で作られたプランターに植わったパンジーが置かれていた。玄関アプローチの花壇にも黄や紫のパンジーが咲いている。森田療法の患者さんや担当職員さんが工夫してやってくれていることである。これから寒い冬の間、鮮やかな色で来院者の目を愉しませてくれることだろう。

 パンジーは三色菫(さんしきすみれ)とも呼ばれる。パンジーの名はパンセ(フランス語の「考える」)から来ていて、下を向いた蕾が頭をもたげて考える人の姿を思わせるからだそうだ。そのため花言葉も「物思い」とか「思慮深い」だという。

 思慮深いのは神経質人間の得意とするところである。よくよく考え抜いたうえで慎重に行動するから大きな失敗は少なく人並み以上の成果をあげることができる。しかし、考えるばかりで行動に移せずチャンスを逃すこともある。特に強迫傾向の人は思考の空回りで時間を浪費しやすい。あまりパンジーの真似ばかりしていないで、時には上を向いて、思い切って手足を動かしてみるのも良い。

2016年12月 2日 (金)

神経質礼賛 1331.『森田正馬評伝』が読みにくいワケ

 勤務先の病院には野村章恒(あきちか)著『森田正馬評伝』(白揚社)があって何度か読んだ。森田先生の日記を引用し、年代を追って書かれ、写真も豊富に載っていて、とても貴重な本である。森田療法関係者からは名著として絶大な評価を受けているが、どうも私には読みにくいと感じる。なぜだろうか。

 原因の一つは森田先生と同じく高知県出身の野村先生が同県出身の文化人に対する思い入れが強いためか彼らについて少々詳しく書き過ぎていることにあるように思う。森田家と血縁関係があり森田先生を叔父さんと呼んでいた英文学者の土居光知(こうち)、物理学者の寺田寅彦らである。そのため、森田先生の評伝としては少々流れが悪くなっていることは否めない。特に森田先生の中学時代からの友人だった若尾爛水は野村先生の叔父ということもあって力が入っている。爛水は俳人であり正岡子規門下だった。子規への追悼文「子規子の死」が子規に対する批判と受け取られて同門の俳人らから指弾され、中央の俳壇を追われ、高知に帰り隠棲する。『俳懺悔』という爛水の書には若気の至りで破門されたことへの無念の思いや田舎での孤立無援の生活ぶりが綴られていることを紹介している。爛水のことを世に知らしめたいという強い思いが伝わってくるが、森田先生の評伝としてはもう少しさらっと書いてほしいと感じてしまう。

 もう一つはこの評伝が出版された1974年(昭和49年)という時代も考えに入れなくてはならない。学生運動は下火にはなっていたが、まだそれなりの社会的影響はあった。私が高校生の時である。その2年後に受験で京大に行ったら時計台には白ペンキで大きく「竹本処分粉砕」と書かれ入試前日のTVニュースでは学長が学生たちに取り囲まれてどつかれているのを見て、明日からの入試は大丈夫かと心配になったくらいだ(試験には落ちたので心配する必要はなかった)。そんな時代である。読者が左翼思想に染まらないようにという配慮のためか、森田先生が左翼思想を批判したことに関連して、戦前の『左翼学生生徒の手記』(文部省)などからの引用を中心とした部分が20ページも続き、この部分が冗長に感じてしまう。戦争放棄をうたった憲法第9条の廃止を主張する政党が国会の大多数を占め日本も核武装すべきという意見までみられるこの頃である。現代の若い人たちには理解しにくいところだろう。

森田先生のお弟子さんたちの多くは真面目で努力家の神経質な秀才タイプだった。一方、野村先生は異質であり、内弟子時代に飲み歩いて門限過ぎに塀を乗り越えて帰ったり、森田先生の一人息子・正一郎さんが未成年なのに酒やタバコを勧めていたりして、森田先生からは少々疎まれていたそうである。一方で久亥夫人には可愛がられていたという。野村先生は天才肌ということになろう。神経質なお弟子さんが評伝を書いたらまた少し違ったものになっていたかもしれない。

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