神経質礼賛 1338.生死事大 無常迅速 光陰可惜 慎勿放逸
前々話、大徳寺聚光院と臨興院を拝観した後、同じ大徳寺の大慈院にある泉仙(いずせん)という精進料理の店に入ったと書いた。この店の料理は鉄鉢(てっぱつ)料理と言って、托鉢僧の鉢の形を模した朱塗りの椀に入れた精進料理が次々と出てくる。野菜と豆腐・湯葉を使い優しい味付けでなかなか美味しい。面白いことにこの椀は入れ子になっていて、最後にきれいに重ねられるのである。また、箸の包み紙も興味深い。右側に「有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ風吹かば吹け」と書かれている。これは修行中の一休さんが師の公案に対して答えた言葉であり、有漏路とは煩悩(迷い)の世界、無漏路とは仏(悟り)の世界を意味し、これにより一休の号を師から賜ったとされている。さらに、包み紙の中央には「生死事大 無常迅速 光陰可惜 慎勿放逸」と書かれた木版(もっぱん)の絵がある。生とは何か死とは何か・いかに生きるべきかを明らかにするのが究極の課題である、すべては無常であり時間はあっという間にすぎてしまうのだから無駄に過ごしてはいけない、といった意味になろうか。
何ともドッキリする言葉である。不安をなくすための「はからいごと」に終始している人、強迫観念で頭を空回りさせている人や確認行為や手洗いなどの儀式で時間を無駄遣いしている人には強烈な鉄槌になるだろう。私も毎日をその日暮らしで生きていていつもジタバタしていて少し閑になると放逸しがちな情けない自分を反省するばかりである。と言いながら、明日は病棟のクリスマス会で楽器の演奏を急に頼まれて、気安く引き受けてしまい、あわてて準備している自分がいる。悟れなくてもどっこい生きている。これでいいのだ、と開き直る。
« 神経質礼賛 1337.源光庵 | トップページ | 神経質礼賛 1339.クリぼっち »
森田先生は森田療法に開眼なさってから禅の言葉がよく理解できるようになられたと仰っていたと思います。禅をよく知ってから森田療法を確立したのではなく、人生の諸相や感情の流れを観察する中で「事実即真」や「行動は権力なり」を体得し、森田療法に結実なさったのだと思われます。
禅などは一般には訳の分からん異物であり、そのようなものを森田的生き方の必修前提の様に言う人があったら、それは素人を害すること甚だしいと思うのであります
投稿: たらふく | 2016年12月23日 (金) 22時13分
「神経質礼賛 135.禅と森田療法」に四分先生お書きの通りです。禅のイメージの多くは時代劇で「喝!」とか怒鳴っている坊主のイメージです。手のひらに人と書いて呑む真似をする虚仮威しと同類だと思います
今でもやっている人がいるなら、それは暇つぶしか、自他をごまかすパフォーマンスでしかないと思います。
投稿: たらふく | 2016年12月23日 (金) 22時32分
たらふく様
コメントいただきありがとうございます。
よくお読みいただきいただきました。135話は森田療法と禅の違いについて指摘したものです。さらに森田先生の言葉をもう少し追加すると、
禅やそのほかの仏教で「煩悩無尽誓願断」とか煩悩を断つとかいうけれども、私の療法では、決して断つのではない。煩悩のままであるのであります。(森田正馬全集第5巻p.388)
となります。私は禅文化には大変魅力を感じますが、あえて参禅しようとは思いません。難しい公案を解いたり、長時間座禅したりするのは、森田療法の立場から言うと「ものそのもの」になっていないのではなかろうかと感じます。練習の弊害を森田先生はよく唱えておられました。実生活の中で性(しょう)を尽くすのが森田療法の最終目標だと私は常々思っています。
私は悟れないまま、煩悩はあるがままに生き尽くせればそれで十分だと考えます。
投稿: 四分休符 | 2016年12月24日 (土) 17時50分
四分先生、有難いお言葉です。
世のすべての神経質者に
「私は悟れないまま、煩悩はあるがままに生き尽くせれば
それで十分だと考えます。」
この境地を味わって頂きたいです。
投稿: たらふく | 2016年12月24日 (土) 21時59分