神経質礼賛 1346.心配し尽して心配を忘れる
1340話に書いた最後の形外会の際には、森田先生の高弟・古閑義之先生が自身の強迫体験を語っている。
私自身の例でいうと、十七、八歳のころ肺病を非常に心配した事がある。方々の医者を回り、薬をのんだりした。癩病の事も気になった。眉毛を引っ張ってみると抜けるので、癩病の初期ではないかと非常に恐怖した。
二十一歳の時、慈恵大学に入学し、その後、いろいろの病気の講義を聴くようになり、どれも自分にもあるような気がして随分恐ろしかった。しかしあまり心配の事柄が多いので、一つの心配にこだわっている事ができなくなり、恐怖がなくなったのであります。
強迫観念は、ただ一つの事ばかりを心配して、しかもそれを心配すまいという心の拮抗作用から起こるので、何かにつけて、あれもこれもと心配するようになると、強迫観念はなくなるのである。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.764)
これは誰でも、特に神経質な人は、経験するところだ。TVの健康番組で病気の話を見ると、自分もそうではないかと心配になる。家庭の医学のような本を見たら怖い病気の例が数多く載っているから、自分にあてはまるところを見つけて恐ろしくなってしまうのである。私も古閑先生と同様に医学生の時には自分の病気の兆候を見つけては心配になったものである。しかし、心配しなくてはならないことは日常生活の中に山ほどあるし、必要に迫られて次々と行動しているうちにいつしか忘れている。ふっと思い出してまた恐怖することはあっても、忙しい中でまた忘れるのである。これがもし立ち止まって同じ心配にとらわれていたら強迫観念のスパイラルにはまりこんでしまう。
森田先生の言葉「神経質は仕事のためにす 治るためにせず」(220話)の通りである。心配をなくそうとジタバタすればかえって深みにハマってしまう。心配はあっても次々とやるべき仕事を見つけて行動していけば健康的な生活が送れるばかりでなく、人並み以上に仕事ができているのである。
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