神経質礼賛 1344.赤面恐怖
このところ赤面恐怖を訴える人をとんとみなくなった。なぜだろうか。森田正馬先生の時代には対人恐怖と言えば赤面恐怖というほど多かった。形外会の記録を読むと、赤面恐怖の話が出ると我も我もと発言者が出ていたし、新年会の余興では水谷啓二さんら「赤面恐怖一座」が滑稽劇を披露して赤面恐怖の症状を笑い飛ばしたりしていた。森田先生のお弟子さんの中にも赤面恐怖の人がいた。現代人がクールになったためだろうか。それとも、対人恐怖のため、ひきこもって赤面する場面を回避してしまうためだろうか。あるいは他の症状に隠れて目立たなくなっているためだろうか。
私などは元々対人恐怖・赤面恐怖であるばかりでなく、実際に緊張するとすぐ顔が赤くなる赤面癖だった。今では赤面しても仕方なしにビクビクハラハラのままで人と会って話をしているので、赤面はしてももはや「恐怖」ではない。時々病院の行事の際には患者さんたちの前で楽器を弾く。これもやはり緊張するもので、後でビデオや写真を見るとしっかり赤ら顔が写っている。そして、冬場には、診察室やナースステーションにいると頭上のエアコンからの暖風が顔に吹き付けるので、それだけでも酔っ払いのように顔が赤くなってしまう。それでも顔が赤いままやるべきことができればそれでよいのである。私は初めて森田正馬全集を読んだ時に、次の文が自分のことをピッタリと言い当てているように感じたものだ。
顔が赤くなるといふことは、恥かしいとか怒るとかいふ時に誰でも起る反応であり表情である。只だ色の黒い人には目立たぬのみである。又人によりては一杯の酒にも顔が眞紅になるやうに、交感神経の関係で其潮紅反応の多少の相違はある。然れどもこれは恐怖即ち強迫観念といふことには全く無関係である。単なる赤面癖は、只だ氣の小さい恥かしがり屋といふに止まる。
赤面恐怖はこれに反して単なる恥かしがり屋ではない。恥かしがるのを以て、自らをフガヒなしとし、恥かしがらじとする負けじ魂の意地張り根性である。単に氣の小さいのは意志薄弱の素質から起り、負けじ魂は神経質の素質から起るのである。(白揚社:森田正馬全集 第3巻 (赤面恐怖の治療法) p.114)
後半の「恥ずかしがるのを以て、自らをフガヒなしとし、恥ずかしがらじとする負けじ魂の意地張り根性」は神経質性格の本質を捉えた見事な言葉であり、赤面恐怖ばかりでなく他の症状の神経質にも当てはまる。神経質の弱力性と強力性が表裏一体のものであることを言い表している。赤面したところでどうということはない。生の欲望に沿って行動あるのみである。
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わたくしは赤面恐怖ではないのですが、赤面恐怖の人には切実な問題なのでしょうね。ただ思いますに、人の顔が赤いと言って馬鹿にする人間っていうのはちょっと想像し難いし、そんなことするならそいつが劣等だと思います。可愛い女子が近くにいたら、「おめえ、なに赤くなってんだ!?」と、よっぽど親しい仲ならからかいますが
投稿: たらふく | 2017年1月14日 (土) 17時16分
たらふく様
本人にとっては「生きるか死ぬか」的な深刻な問題であっても客観的には「それがどうした」であるところがまさに神経症の特徴ですね。
赤面するのは正直で純情な証拠です。小中学校の頃「お前、〇〇ちゃんが好きなんだろ」と私もからかわれたクチです(笑)。
投稿: 四分休符 | 2017年1月14日 (土) 21時33分