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2017年2月24日 (金)

神経質礼賛 1359.「餌をあげる」

 毎日新聞の日曜版の最後のページに「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムがあって、いつも読んでいて、そうだその通りと思うことが多い。2月19日の記事では「(鹿に)餌をあげる」という言葉をしきりに使う女性アナウンサーを「優しい人を演じている」と批判し、最近料理番組でよく耳にする食材に対してまで「○○してあげる」という表現にも言及している。TV番組であまりによく聞く言葉なので、ちょっと違和感が薄れてきているが、確かに本来はおかしい。(動物に)餌を「あげる」、(草木に)水を「あげる」ではなく「やる」が正しいはずだし、食材に対して「○○してあげる」はもってのほかである。

 実は森田正馬先生もこういった表現を批判しておられた。「神経質者のための人生教訓」の中で「社会の風潮」と題して次のように述べておられる。


 世が進むと共に、華美・虚栄・軽佻・浮薄となつて、徒らに不釣合の敬語や・優雅の言葉を用ひたがるやうになる。「魚屋がいらつしゃつた」「坊やは、どう遊ばしたの?」といふ言葉を濫用する結果は、目上の人に対して、却て言葉に窮するから、仕方なしに。「先生が来た」「叔父さん、どうしたんです」とかいふ事になる。追々と世の中が傾倒の気運になつて来るのである。又「兎が咬じる」「小鳥がつゝく(ついばむ)」「金魚が食ふ」とかいふのは、素朴であり・野卑である・とか考へるでもあらふか。「獅子が子をたべ殺した」「金魚にフをあげる」とかいふ風になる。

抑も「たべる」とは、「給はる」事で、「こらへてたべ半七さん」といふやうなものである。即ち「たべる」とは「頂く」「頂戴する」と同義であるから、「蛇が蛙を頂いて居る」といふと同様である。世が一般の風習になると、不合理な言葉も、いつしか耳障りにならなくなる。しかし注意すべき事は、之が不知不識(しらずしらず)の間に、社会感情の虚栄・浮薄の深い基礎を培養し・醗酵を起して居るのである。(白揚社:森田正馬全集第7巻 p.484


 言葉は時代とともに変化していくものではあるけれども、虚栄・浮薄の風潮には流されないよう気をつけたいものだ。

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コメント

"あげる" を "差し上げる"の意味で使うと謙譲語でおかしな感じがしますが、現在では "やる"の意味を丁寧に言う時は "あげる" が普通に使われている気がします。これには上下と言った敬語の意識はなくて、ほんとうに印象をきれいにするだけの使われ方です。同輩や後輩に対しても、 "これやるよ"と "これあげるよ"はどちらも普通に言われていますし、さして親しくもない相手に "やるよ" はかえって変な感じが致します。
 不快な語といえば、何と言っても "目線"です。もともと視線という語がちゃんとあるし、含意が "論者の立場・状況" なら、そのまま立場や、状況、立ち位置などと言えばいいのです。
 カメラマンなどの業界用語をすかして使うバカが多いです

たらふく様

 コメントいただきありがとうございます。

 確かに「あげる」は丁寧語化しているので、現在では幅広く使われているようですね。しかし、無生物にまで「あげる」はやり過ぎかなと思います。
 「目線」は近年多用されるようになった言葉であまり使われると感じが悪いです。政治家やお役人様たちが「立ち上げる」「加速する」「しっかりと」を乱発して、あたかも一生懸命やっているかのようなフリをするのはまさに虚偽です。

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