神経質礼賛 1365.加害恐怖
加害恐怖を主訴とする新患の人がみえた。多少の不潔恐怖や不完全恐怖もあるが、一番困っているのは加害恐怖であり、車を運転していて事故を起こしてしまったのではないか、歩いていて人に自分の体やバッグや傘が当たってしまったのではないか、と心配になって、交通事故のニュースを調べたり、いつまでも人にぶつかったのではないかと気になったりする、という症状である。きっかけは、かれこれ15年位前に狭い山道ですれ違った対向車が大きな音を立てたことだった。その車はそのまま行ってしまったのだが、本当は自分の車が当たっていて、当て逃げになってしまうのではないか、とひどく心配になって、以来、その種のことで人に危害を加えていないだろうか、とひどく気にするようになった。そもそも人に危害を加えたのではないかと心配し過ぎる人が他人に危害を加えることはないのであるのだが。スピリチュアルな方面にも相談したが効果がなく、初めて医療機関にかかってみた、とのことだった。
こういう人は時々いる。以前にもたまたま運転中に衝撃を感じ、人を轢いてしまったのではないかと心配になって、何度もその場に戻ってみたり交通事故のニュースを調べたりしているうちに、ついには仕事にも行けなくなって、入院森田療法で良くなったという人がいた。
今回の方の場合はそれほど重症ではなく、日常生活はできているし、薬の治療は希望しないとのことだったので、症状のしくみについて説明し、確認したいと思っても気にはなりながらも前へ進んでいくこと、家族に確認してもらい安心しようとする「巻き込み」をするとますます重症化するので自分一人でこらえること、といった話をした。この方も、自分が心配する分野だけは非常にこだわりが強いが、そうでない分野は意外とズボラとのことであり、神経質をまんべんなく発揮していくようにと話しておいた。森田正馬先生は次のように言っておられる。
「捉はれ」とは、物事の或る一方面のみに注意するため、其全般を観ることが出来ず、之に対する適切なる処置を採ることの出来ない事をいふのである。下を見て歩けといはれて、クヾリで額を打ち、上を見なければいけないと思って、物に躓くやうなものである。(白揚社:森田正馬全集 第7巻 p.400)
加害恐怖や不潔恐怖のような強迫症状の場合、単に症状をよくすることだけを考えて、行動療法のようなことをやって仮にそれがなくなったとしても、今度は別の症状が出てくる、というモグラ叩きになりかねない。それよりも神経質を日常生活のあらゆる方面に生かして行動していくことが、結果的には「気が付いたら良くなっている」おまけに「仕事や家事や勉強がはかどり、人との関係も良くなる」という形になるものである。
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加害恐怖のお話は身に沁みます。他者への思いやりというよりは復讐や逮捕が怖くて公共の場では小さくなっております
その反作用で傍若無人に混んだ車内でリュックを背負ったまま人に押し付けている人間や、足を組んだり、投げ出してる輩には激しい怒りを感じます
不快感や怒りを覚えるのはそのままにして(森田流)、やり過ごすのが現代社会の大人の処世術のようです。
生活での不快な事象にはヒジョーに敏感ですが(神経質の局所的発揮)、他の大事なことがポッカリお留守になるのが一番困ります
投稿: たらふく | 2017年3月13日 (月) 16時51分
たらふく様
コメントいただきありがとうございます。
「反作用」という表現はとてもよく理解できます。私も周りに迷惑をかけないよう気をつけていて、それゆえ無神経な人には「怒」メーターが一気に急上昇してしまいます。
患者さんに対して言っていることは自戒の言葉でもあります。
投稿: 四分休符 | 2017年3月13日 (月) 20時26分