神経質礼賛 1374.あれこれ気の張っている時、最も仕事ができる
普段、あれもやらねばこれもやらねば、ということが次々と発生し、ジタバタの毎日を送っている。そして雑念も始終沸き起こる。禅僧のように悟った人ならば青空のように澄み切った心で淡々と仕事をしていくことができるのだろうなあ、と思ったりする。しかし、森田正馬先生は心をいじる必要はなく、そのように気の張った状態でよいとしている。形外会の場で貿易商をしていた香取会長に対して次のように言っておられた。
心が絶えず緊張するには、一口にいえば、忙しい境遇に身を置けばよい。香取さんは、いつも子供の遠足のような気持ではありませんか。常に事業の事や、次からつぎへと、仕事の事が、気になっているでしょう。ここで電話が、リンと鳴っても、御自分の家からかかったのではないかと、思うような事はありませんか。よその電話まで、自分のものに取り込むという風ですね。よく読書もでき、面白い話もできる時は、周囲の事に対して、あれやあれやと気の張っている時です。机上論で腹式呼吸でもやり、周囲の事も何も忘れて、心が一つになった時が、仕事が最もできるという風に考えるのは、思想の間違いである。精神が四方八方全般に働いて、しかも現在の仕事の最も適切にできる状態を、「無所住心」というかと思います。これがいわゆる「悟り」でありましょう。(白揚社:森田正馬全集第5巻 p.326)
森田療法と禅との関係はよく言われるところだが、その違いについては以前に書いた通りである(135話)。日常生活を離れた静寂な禅寺で座禅を組み瞑想しても実際の生活の中でそれが役立たなければ意味なしである。森田療法ではハラハラドキドキはそのままにして雑念も浮かぶままで仕事に取り組んでいくよう指導する。禅の修行は大変であるが、この森田療法ならば、いつでもどこでも実行できる点が優れている。
鎌倉時代に大徳寺を開山した禅僧・宗峰妙超(大燈国師)は
「座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を 深山木にみて」
と歌ったと伝えられている。それに対して森田先生は
「折角に 座禅したらば 正直に 人は人ぞと 見てやればいい
形外蝉子」
と色紙に書かれている。京の四条五条を行き交う人々も座禅していれば深山の木々と同じように見える、という禅師の句に対して、森田先生は蝉子とへりくだりながら、チクリと皮肉っている。人は人、あるがままに見ればよいではないか、というわけである。森田療法の主戦場は平凡な日常生活の中にあるのだ。
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森田先生は座禅などとっくに超えていらっしゃったと思われて嬉しいです。「事上の禅」ということばを全集でいく度かみて感激しておりました。
それにしても形外せみとは、森田先生はユーモア感覚が抜群だったのですね。あまり今まで感じたことありませんでした。
ふと思い出しまして ー 人差し指をけがした人に向かって、「あんたは目上に不満を抱いただろう。その指は目上を意味するから、その罰だ」、みたいなことを云う輩を例に上げて、
森田先生が、「なんでこんな奇抜なことを思いつくのであろうか。今まで目上に不満を感じなかった人がいただろうか」ー このような大変痛快な面白いお話が浮かんできました。
森田先生、大達人にして真のユーモア感覚の粋人でした。
投稿: たらふく | 2017年4月20日 (木) 11時59分
たらふく様
禅の修行は確かに立派だとは思いますが、森田先生の教えの方がはるかに実用的です。こんなことを言ったら叱られるでしょうけれど、禅の修行は非生産的です。それよりも、実際の日常生活の中で自分を高めていく森田療法の方がはるかに優れていると個人的には思っています。
投稿: 四分休符 | 2017年4月20日 (木) 21時38分