フォト
無料ブログはココログ

« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »

2017年7月31日 (月)

神経質礼賛 1410.心は流転する

 日常生活をしていく中であれこれ雑念が湧く。時にはそこに留まってしまうことがある。大事なことを忘れていやしないか、と気になって確認したくなることもある。嫌な気分や怒りの感情がくすぶって頭の中でそれを反芻して長引いてしまうこともある。体の不調が気になることもある。先のことがあれこれ心配になることもある。幸いにして、次々とやらなければならないことが発生するので、行動しているうちに雑念や確認願望や怒りや種々の心配・不安はいつしか消えている。浮かんでは消えていく空の雲のようなものである。雲を相手にして一喜一憂しても仕方がない。放っておけば、時間が経てば、自然に消えていくものだ。

 森田正馬先生は、「つまらないことに疑問が起こり気にする」という29歳男性会社員からの手紙に次のように返信しておられる。


 貴方の疑惑症と称するものは、之を治すのに、実際には、日常生活に於て、其疑惑の・様々に起伏出没するまゝに、之を其儘に、自由に放任しながら、急ぐ仕事は急いで、ひまの時には、ゆつくりと、其業務を怠らぬやうに、勤めて行かなければなりません。之が唯一の療法であつて、之より外に、決して治る事は出来ません。

 之は小生の療法で、神経質の頭痛持ちは、其頭痛のするまゝに、決して之を治す工夫をせず、常人と同様に、仕事をすればよろしく、又不眠の人は成るたけ、寝床につく時間を減少して、人一倍働くやうに・しなければならぬと同様です。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.484

 其強く心に、次第に推し進めて行く心理は、即ち、強迫観念の性質であつて、こんな想像や・考へを起すのは、余計なムダ事で、徒に仕事の能率を悪くするから、こんな考へを起さないやうにしやうと、我と心に反抗するから、益々其心が明瞭になり・強くなり・苦痛を伴うやうになります。若し、之を其のまゝに、思ひ流して行けば、決してそれが苦痛とはならず、絶へず流れ去って、濁った泥水も、水流が適度に早ければ、其水が早く澄むやうに、心の邪魔もなくなるのであります。尚ほこんな事を思ひすてるために、最後の決心として、便利な考へ方は、「世の中は、諸行無常で・定まりはない」「得べかりし金剛石を失ふのも、一朝に我家の焼け失せるのも、何とも、成り行きで仕方がない」「何不足、人は裸体で生まれたに」という風に思ひきる事です。(白揚社:森田正馬全集 第4巻 p.486

 

 いろいろなことが気にはなっても、それはそのままにして行動していくうちに、自然に薄れていく。心は流転していくのである。

2017年7月28日 (金)

神経質礼賛 1409.「違くて」増殖中

 勤務先の病院が移転した15年ほど前からだろうか。若い外来患者さんの話す言葉に「~と違くて」という表現を耳にするようになった。最初は強い違和感があった。どこの方言だろうかとも思った。今ではしょっちゅう聞くようになっている。どうやら方言ではなく若者言葉らしい。

「違う」は動詞であるから、違くて、という活用はありえない。「違って」(違いて)が正しい。「違くて」は文法上違っているのである。「違う」の古語「違ふ」だと、違はズ、違ひタリ、違ふトキ、違ヘド、というようにハ行の活用になるので現代語よりスッキリしてわかりやすい。誤用の原因としては、動詞とは言っても、実際には状態を示す言葉なので、形容詞に近い働きをすることが考えられる。それにしても、今の小学校の国語では動詞の活用を教えないのだろうか。いわゆる「ゆとり教育」や英語の導入で国語はすっかり軽視されてしまったのかもしれない。言葉は時代とともに変化していく。誤用もそれが過半数に浸透すれば、正しくなる。今では「ら抜き」言葉もすっかり定着してしまった。逆に「行けない」を「行けれない」と言う「れ入れ」言葉、「行かせて」を「行かさせて」とする「さ入れ」言葉も珍しくない。もしかすると将来は「違くて」が正しくて「違って」は古めかしい言い方とされてしまう可能性もありうる。それでも神経質人間はそうした現代表現に簡単には靡かないのである。

2017年7月24日 (月)

神経質礼賛 1408.電波ソーラー時計でも遅れる

私の腕時計は長年CASIO製品である。デジタル時計は電池が5年もつというのを買い続けていた。電池は平気で10年位もつけれど5年位でゴムバンドが切れて買い替えてきたのである。12年前に電波ソーラーのデジタル時計に買い替えた。ステンレスバンドなので切れる心配はなく、まだちゃんと使えている。ただしちょっと重いので、6年前にアナログ表示の電波ソーラー時計を買って、現在はこれを主に使っている。ところが2年ほど前から20秒遅れるようになった。インジケータを見ると電波はちゃんと受信できている。まあ、20秒なら許容範囲内である。ところが突然、遅れが120秒になってしまった。これはいけない。正確な電波時計だと思ってアテにしていると電車に乗り遅れる心配がある。いよいよ壊れたのかなあとも思ったが、アラームは正確な時刻に鳴っている。つまり、内部は正確ながら針表示がズレてしまっているのだ。神経質人間ゆえ、取扱説明書は全部保管してある。早速出して読んでみると「針の基準位置合わせ」という項があった。

「強い磁気や衝撃を受けると、針が基準位置からずれることがあり、電波受信を行っても正しい時刻を表示することができません。以下の操作を行って針の基準位置を確認し、ずれている場合は、基準位置を合わせて下さい」ということで操作法の説明が書かれていた。その通りに1回やってみて、まだズレていて、もう1回やったらピタリと合わせることができた。

やはり取扱説明書はとっておくものである。

2017年7月21日 (金)

神経質礼賛 1407.うなぎ茶漬け

 子供が昔お世話になったピアノの先生が2、3年に1回、海外の弦楽四重奏団と組んでシューマンやドボルザークのピアノ五重奏曲をメインとしたコンサートを開いている。先日は前回と同様、ワルシャワ・ストリングカルテットと組んでの演奏会が銀座の王子ホールで行われたので聴きに行った。普段、東京に行った時の食事は牛丼屋で済ませてしまうことが多いのだが、このところの暑さでバテ気味なので、夕食は奮発してうなぎ料理屋へ行った。

 うなぎが年々食卓から遠くなっている。スーパーに並ぶ国産うなぎ蒲焼は長焼きで2000円位。中国産でも1500円位する。店のうな重も3000円台からである。これでは簡単には口に入らない。そして資源枯渇のため、近い将来うなぎが全く食べられなくなる心配もある。うなぎの生態を解明して完全人工養殖できるようになってほしいものだ。

 浜松に住んでいた頃、浜松駅近くの広小路に明治時代創業の「八百徳」といううなぎ屋があって、うなぎ茶漬けを売りにしていた。何度か店の前を通り一度食べてみたいと思いながらついぞ入る機会がなかった。昨日は有楽町駅近くの東急プラザにある「うなぎ徳」という店に入った。八百徳の肴町店が発祥だという。もっとも広小路の八百徳さんはホームページ上で関係を否定している。ともあれ、うなぎ茶漬けを注文する。名古屋の「ひつまぶし」と同様の食べ方である。おひつを開けると刻んだうなぎ蒲焼が御飯に乗っている。杓文字で茶碗に取ってまずはそのまま食べる。次は薬味(ワサビとネギ)を乗せて食べる。最後に蒲焼の上から出し汁をかけて茶漬けにする。どれも美味しい。3通りの味が楽しめて良い。ひつまぶし・うなぎ茶漬けは、最初は型崩れした蒲焼を利用したまかない料理だったという。お店のうなぎ茶漬けはきれいな蒲焼に包丁を入れているが、浜松でよく売られている瓶詰めの刻んだうなぎの蒲焼は型崩れしたものや半端になったものを利用しているのであろう。それを利用すれば、家庭でも手軽にうなぎ茶漬けが楽しめるというものだ。半端なものでも上手に利用して価値を最大限に高めてやる、というのはまさに「物の性(しょう)を尽くす」(350)に他ならない。

2017年7月17日 (月)

神経質礼賛 1406.縁起の悪い語呂合わせ(2)

 縁起の悪い語呂合わせの話は以前書いている(444話・拙著p.38)。読んで下さった方にはよほど印象に残るようで、あの話が一番面白かったなどと今でもよく言われる。番号が割り当てられてしまう車のナンバーや電話番号は長く使うものだから、縁起の悪い語呂合わせは気になりやすい。妻がケータイを変えたら、局番が4219(死に行く)になってしまい縁起でもない、と憤慨していた。「世に行く」と読めばいいんじゃないの、と言っておいたが、納得していない様子。まあ、個人の電話番号は仕方がない。以前私がパート勤務に行っていた老人病院の電話番号は22-2525(にいにいニコニコ)だったのが、市外局番が3ケタになった際に「4」が付いて422-2525(死人にニコニコ)と非常にまずい番号になってしまった。さすがにその後、電話番号を変更して現在は差し障りのない番号になっている。

 語呂合わせがニュースになることはあまりないが、3年ほど前、兵庫県三木市で市内から総合医療センターへ直通の小型ノンステップバスを新たに購入したところ、そのうちの13台のナンバーが「42」で始まるもので、利用者から「不吉だ」「縁起でもない」と苦情が出たという話があった。特に評判の悪かった「死に向く」「死に来い」「死に頃」とも読める「4269」「4251」「4250」の3台は別のナンバーに交換したそうだ。しかし、ナンバー交換にはお金と手間がかかる。その後はどうなっただろうか。

 本来は数字に意味があるはずはなく、「1111」だろうが「4242」だろうが、同じことである。語呂合わせは数字を覚えるのには便利であるが、意味付けしてそれを忌避したのでは生活に差し障りが出てくる。それが行き過ぎると強迫性障害の縁起恐怖になってしまう。たまたま縁起の悪い語呂合わせに当たってしまったら、気にはなっても、笑い飛ばしておく位が良いだろう。

2017年7月14日 (金)

神経質礼賛 1405.健康とは

 6月16日の京都森田療法研究所ブログに宇佐玄雄先生の講演音声が公開されたことは1399話でご紹介した。その後、7月8日に第2弾として、「森田先生の教えについて」(340)、「健康とは」(314)」、7月10日に第3弾として、「精神の対比現象」(250)、「猿沢の池」(255)、「植物神経(卑近な例も)」(1030)が追加公開されている。とても有難いことである。玄雄先生の写真や「うつすとも水は思はず うつるとも月は思はず 猿沢の池」と書かれた玄雄先生の色紙もある。はからいのないあるがままを表現した禅僧らしい歌に思える。ちょっと長い「植物神経」の御講演の後半には聴衆の笑い声が入っており、「卑近な例も」とはそういうことか、と納得する。ここでは内容を書かないので、ぜひ京都森田療法研究所のブログを開いて聴いていただきたい。

 神経質人間は自分の心身の状態を過度に気にするきらいがある。そうなると、頭が重いとか肩がこるとか心臓の鼓動が気になるとか何だか腹がスッキリしないとかいろいろな不具合を探し出してしまうのである。普通の人でもそうしたことはあるのだが、気にし始めるとますます感覚が鋭敏になって病気ではないかと心配してしまうのである。注意の集中→感覚の鋭化→意識の狭窄→注意の集中・・・という悪循環(精神交互作用)により、ますますとらわれを深めて症状として固着する。そして症状をなくそうとすればするほど重症になってくるのだ。そこで、森田療法では症状は相手にせずそのままにして、仕事や勉強や家事や趣味といった必要な行動を優先していく。注意が外向きになれば、自然とそうした悪循環は断たれ、健康的な状態に変わってくるのだ。今回公開された講演の「健康とは」の部分では、森田先生の言葉も踏まえて説明されている。調子がいいとか悪いとか気にならないのが実は健康というわけである。

2017年7月10日 (月)

神経質礼賛 1404.漢方薬でも薬疹は出る

 漢方薬は医療現場でもよく使われている。漢方だと副作用がないと思っておられる方もいらっしゃるかもしれないが、副作用はある。私自身、風邪のひき始めには葛根湯を飲むし、花粉症対策に小青龍湯を3か月続けて飲んだ年もあった。これらはマオウを含んでいるのでエフェドリンの覚醒作用により動悸や不眠が起こりやすい。今回、自分自身、漢方を飲んで初めて薬疹を経験したので、恥を忍んでご紹介し、注意を喚起したい。

 先週の日曜日、両足それも膝から下に赤い皮疹がポツポツと出てきた。蚊かダニによる虫刺されであろうと考えて殺虫剤を撒いた。しかし、時間を追って皮疹は増える一方である。蕁麻疹を起こしそうな変わった食物は食べていない。2週間前から飲んでいる補中益気湯が怪しいと思い、服薬を中止した。皮疹はくっついて拡大した。手持ちの弱めのステロイド軟膏を患部に塗って対応したが、踝のあたりを中心に赤く腫れ上がった。痒みを通り越して痛みが出てきて階段の昇り降りがきつい。もし、下腿以外の部分にも広範囲に出るようだと皮膚科に駆け込んでステロイド点滴治療を受けるしかない。幸いにして2日後をピークに4日後には歩くのに痛みを感じなくなった。5日後には赤みが薄らいで薄茶色っぽくなってきた。日常生活には影響はなくなったので、一安心である。完全に跡が消えるまでにはあと2週間くらいかかりそうだ。

薬疹はどんな薬でも起こりうる。漢方薬も例外ではない。飲み始めてから発現するまでの期間もまちまちのようである。怪しいと思ったら、すぐに服薬を中止し、医師や薬剤師に相談してみることである。

2017年7月 9日 (日)

神経質礼賛 1403.物忘れ改善剤

 この頃、「物忘れ改善剤」と称する薬が次々と新発売となっている。クラシエ薬品から「アレデル顆粒」、小林製薬から「ワスノン錠」、ロート製薬から「キオグッド顆粒」、いずれも主成分は「オンジエキス」といって、イトヒメハギという植物の根から取った生薬ということだ。東洋医学で健忘に効くとして使われてきている。ただし作用機序や効果はハッキリしない。こうした薬を漫然と飲み続けて認知症に気付くのが遅れてしまうリスクを指摘する声もある。

別の作用による物忘れ改善効果を謳っている薬(サプリ)もある。DHAやEPAも物忘れ改善を謳っていることがある。また、カルピスの製造過程でできるカルピス酸乳由来のCS19ペプチドという物質が脳由来神経栄養因子(BDNF)を増加させ、神経伝達物質アセチルコリンの放出量を増大させ、認知機能を改善するとのことで、8週間服用した場合の記憶力や集中力の改善効果を示すデータが公表されている。

私くらいの年齢になってくると、「あれ、今何をしにここへ来たんだったかな?」という事態が時々起る。もう一度元の場所に戻ると、大抵は思い出す。今日やらなければならないことを5つ位抱えていると1つ2つ落ちてしまったのに気付いてあわててバタバタすることがある。年齢相応の健忘はあるけれどもカバーできる程度に収まっているのは、心配性の神経質のおかげである。

2017年7月 7日 (金)

神経質礼賛 1402.モンテッソーリ教育と森田療法

 中学2年にして将棋のプロ棋士となり、さらには29連勝という輝かしい最多連勝記録を樹立した藤井聡太四段に注目が集まっている。彼がモンテッソーリ教育を受けていたということでモンテッソーリ教育も急に脚光を浴びている。Google創設者やWikipedia創設者、さらにはamazon.com創立者といった現代のIT起業家たちもモンテッソーリ教育を受けていたという。

 以前、書いたように(392話)、森田正馬先生は、イタリア初の女医モンテッソーリ(1870-1952)による教育法を高く評価している。


 
 人間は自己の精神の活動を喜ぶ内部の自我が成長して大きくなるのを楽しみとする。何か或る一つの事を仕遂げ、或る一つの事を知り得れば、其成功又は知識其ものが其人にとって非常な喜びである。何も他人から之に対して賞を受ける必要はない。罰に於ても同様である。之が(モンテッソーリ)女史の教育上の根本主義である。

 女史の教育は、つまり自由による訓練であつて、只制限とする処は、自分の自由活動のために他人に迷惑をかける事、及び不行儀なる事を抑止するのみである。訓練に大切なることは、児童に独立心を阻害せぬ事であつて、多くの親や教師は、児童が独りで出来る事、又は出来ねばならぬ事を代わってしてやる風がある。 (白揚社:森田正馬全集 第1巻 p.600


 
 森田療法の作業も、当初は森田先生が材料を買ってきて豆選り・袋貼り・楊枝削りなどを夜業にあてがっていた時期もあったが、のちには患者さんたちの自主性に任せられるようになった。言われたことをただやるだけの「お使い根性」では、退院後にまた行き詰まる。周囲をよく観察し、やるべき仕事を見つけて自発的に行動していく。そうなれば退院後に学校や職場でも臨機応変に活動できて困ることはないし、そうなった時にはすでに症状もどこかに消えているのである。

 モンテッソーリ教育は受験秀才を作り出すのではなく、個性を生かしながら上手に社会で活躍できる子に育てていく、そんな教育法ではなかろうかと思う。森田療法といういわば大人の再教育の場にもモンテッソーリと多くの共通点があるように思う。

 残念なことに、現代の森田療法にはこの自主性を重んじるというあたりが欠落している。現代の医療制度の中で森田療法を行っていこうとすると様々な制約があり、行政から「指導」を受けてしまうことは何度か書いた通りである。いきおい、病棟スケジュールやルールが厳密に決められ、自主的に創意工夫して作業していくことが困難になってしまっている。また、治療者自身も「お使い根性」に陥っているのではないかという懸念もある。いかに患者さんの自発性を引き出していくか、治療者には創意工夫が求められている。

2017年7月 3日 (月)

神経質礼賛 1401.プレミアムフライデー

 先週の金曜日、仕事帰りに駅の改札を出ると、いつもの金曜日がそうであるように、コンコースは多くの人で溢れていた。これから飲食に行く待ち合わせの人々だろう。月末の金曜日はプレミアムフライデーとか称して午後3時で仕事を終えて遊びに行きましょう、というような話があったけれども、地方ではいつもと変わり映えしないような気がする。その翌日の新聞を見ると、政府と財界にとって都合の良い記事しか書かないY新聞には「プレミアムフライデーが定着してきた」と書いてあり、一方、M新聞には「プレ金 浸透せず」「仕事減らなきゃ意味がない」という見出しで批判的な記事が並んでいた。今回Y新聞には事前にプレミアムフライデーを宣伝する全面広告が載せられ、「3人に1人が参加」などというフェイクニュースまで書いてあったという。イメージキャラクターに有名タレントを起用して全国紙に全面広告を載せたりTVのCMを流したりしたら、その費用は膨大である。この高額な広告料はいったい誰が払っているのだろう?結局は税金で払っているのではないか、と神経質ゆえ勘ぐりたくなる。

 そもそも個人消費拡大を目論む財界と政府が一体になってこのキャンペーンを始めたのだ。実際に午後3時で帰れるのは事務職の公務員・大企業社員くらいのものだろう。サービス業ではそうはいかない。医療機関は論外である。そして、増えている非正規労働者がもし3時で帰れと言われたら、収入が減ってしまうことになる。ただでさえ、残業はするなと言いながら、少ない人員で多くの仕事をさせようとしている企業が多い中でプレ金を強制したら、ますます社員たちを苦しめることになる。喫茶店での隠れ残業や仕事のお持ち帰りを強いられることになるだろう。プレ金の強制よりも、体裁ばかりで無駄な書類や会議や仕事を減らす工夫をして、有給休暇を取りやすくし、各個人がコンサートや劇を見に行ったり、家族で博物館や美術館へ行ったり一緒に食事をしたり、ということをしやすくするのが本筋なのではないだろうか。

« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »

最近のトラックバック

2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31