神経質礼賛 1418.龍馬と正馬
現在、静岡市美術館で「没後150年 坂本龍馬」展が開催されている。その前は江戸東京博物館で展示されていた。近くに来てくれてありがたい、いつでも行けると思っているうちに会期があと1週間に迫って、あわてて見に行った。書簡の展示が多く、正直なところほとんど読めないので、ひたすら解説を読む。一番の見どころは、やはり近江屋で暗殺された時に龍馬が所持していた刀と龍馬の血が飛び散った梅椿図だろうと思う。何度もTVの歴史番組で見てはいたが、実物を見るのは初めてで、その場面を想像した。近江屋事件の実行犯は誰なのか、黒幕は誰なのか、ということでは諸説ある。一度、伏見の寺田屋で襲撃された時には護身用のピストルの威力とお龍さんの機転により命拾いしているが、この時には無防備に近く、日本の夜明けを見ずして落命したのはさぞ無念だったろう。もう少し心配性の神経質だったら、薩摩藩からの申し出に従って薩摩藩邸内に匿ってもらっていたら、あるいは暗殺されずに済んでさらに大活躍したのでは、などと考えてしまう。龍馬暗殺の翌年、明治天皇に謁見のため御所に向かっていたイギリス公使パークスが襲撃された事件の際、襲った林田貞堅(朱雀操)とパークスを護衛していて林田を斬った中井弘蔵の双方の刀が並べて展示されていたのも興味深かった。両方ともあちこち刃こぼれしていて、斬り合いの激しさを物語っていた。中井は薩摩藩を脱藩して浪人となり、龍馬や後藤象二郎の世話によりイギリスへ密航留学した人物であり、明治の世では外交官として活躍し、京都府知事にもなっている。
坂本龍馬の家は裕福な郷士(土佐藩下級武士)だった。森田正馬先生の家も、祖父・正直が農民から郷士に取り立てられた。ただし、龍馬らのような政治活動には全く無縁であり、日常業務を実直にこなしてたびたび顕彰されたようである。長男・長女が病死したため次女・亀(正馬の母)には同じく郷士の家から婿を迎えた。正馬の父は婿入りの際に「正」の一字をもらって正文に改名したらしい。このあたりの事情は畑野文夫著『森田療法の誕生』に詳しく述べられている。森田先生も幼名は光(みつ)だったが、祖父以来の「正」に父の幼名・馬三郎の「馬」を取って正馬となったと考えられる。正馬の読みはよく問題となる(420話)。森田家の通り字が正(まさ)だとすれば、やはり本人が形外会の場で話したように、本当は「まさたけ」だったはずだ。しかし、読みにくく言いにくい「まさたけ」よりも「しょうま」と家族も友人も呼ぶようになり、郷土の英雄・龍馬の名前に近い「しょうま」という読みを森田先生自身も好んだのだろう。少年時代の森田先生は夜尿症があった。「僕は子供の時、寝小便をした。十くらいになっても時々あったように覚えている。これはもとより変質兆候であるが、坂本竜馬も子供の時、寝小便をしたという事を知って、大いに意を強くした事がある。(笑)竜馬も偉くなったから、自分も偉くならないとは限らないと思った」(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.735)と述べている。龍馬も少年時代は気弱だったというエピソードがある。それだけに龍馬に対する親近感や憧れは強く、弱い自分から脱皮したいという願いがあったのだろう。18歳の時に家出して上京、自活して電信技士になろうとするも脚気にかかり失敗したのも、同世代に土佐から江戸へ出て剣術修行し、やがて大きく羽ばたいた龍馬のことが頭にあったからかもしれない。
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