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2017年9月29日 (金)

神経質礼賛 1430.人情の事実

 外来に新患で来られる方の中には、誰にでもありそうな仕事や勉強や人との付き合いといった日常生活の問題に悩み、診察というよりは、話を聞いて欲しい、といった方が時々いる。心配性の神経質の人が多く、大抵、薬の処方は希望されない。そういう方が来られた時は、ここは医療機関ですから、と説明した上で、現在の困りごとに加えて、一通り、既往歴、家族歴、生活歴、現在の生活状況をお聞きする。時には簡単な心理検査をしてすぐに結果を見せて説明することもある。そして、カウンセリング的な対応をして、不安を感じたり心配になってドキドキしたり眠れなかったりするのは誰にも起きうることである、とも話している。森田正馬先生は「人情の事実」ということを、そうした「患者さん」に話をされていた。


 
 私は迷いに悩む患者が来る時に、「自分もまた、同じ悩みを持つ弱い人間である」という事を話して、妥協をする場合が多い。この点、親鸞が、「自分は悪人であり、罪人である。人を裁く力はない」というような事をいったのと、幾分似たところがありはしないかと思う。

 多くの患者が「肺尖カタル(肺結核の初期症状)を心配して、不眠になり・食欲不振になる」とか、「人前でオドオドして、思う事の半分もいえない」とかいって相談にくる。これに対して、私は「自分も同様である。病気を気にし、人前で気が小さくなる。いろいろ迷う事があるが、それは人情の事実であるから、どうにもしかたがない。この人情を捨てる事はできないから、問題はただ、いかにして人にも愛せられ、よりよく生きて行く事ができるかを、ひたすら心配し・工夫する事である」という風にいいます。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.509


 
 一般的によく言われる「気にするな、心配するな」ではなく、人情の事実のままに「よりよく生きていけるよう、ひたすら心配し・工夫する」よう説くのが、森田療法の画期的なところである。

2017年9月25日 (月)

神経質礼賛 1429.「井伊直虎から直政へ」展

 現在、静岡県立美術館では「戦国!井伊直虎から直政へ」と題する企画展が開催されている。秋分の日に見に行ってきた。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもので、美術館前駅から歩いて坂を上って行っても、さほど汗ばむこともない。キンモクセイの香りが心地よい。県立美術館の企画展はスタンプカード5回分で1回無料入場できる。年1-2回は来ているのだが、カードをなくしてしまったり、うっかり持ってくるのを忘れたりしてしまうことがある。神経質のくせにこれではいけない。今回は5回分のスタンプがたまったカードで無料入場できた。

 井伊直虎と直政については以前書いている(13041305)。今年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で取り上げられ、視聴率で苦戦しがちな女性が主人公のドラマとしては善戦しているようだ。浜松市では「出世大名家康くん」に次いで「出世法師直虎ちゃん」というゆるキャラを繰り出して観光PRに余念がない。今回、直虎の書いた文書が展示されていた。直虎に関しては極めて史料が少なく、女性だったことを示す証拠もない。大河ドラマの放送が始まってから、男性説も言われるようになっている。もっとも、史実がハッキリしない点が多いだけに、自由に面白くドラマが作れるメリットもあるだろう。関ヶ原の戦の際に使われたという赤地に金で「井」の字をかたどった旗や直政以来の赤備と呼ばれる赤を基調とした甲冑は見ごたえがあった。

 会場には井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれた酒井忠次・榊原康政・本多忠勝が使用した甲冑や武具なども展示されていた。家康の第一の功臣であり、家康より15歳年上の兄貴分だった酒井忠次の軍配はとても面白かった。形は相撲の行司が持つような普通の形ながら、先には磁石が付いていて、レンズも2個付いている。夜襲や奇襲を得意とした忠次にとって、磁石は山の中を進軍する時に役立ったのだろう。晩年に秀吉の招きで京に隠居した時には失明寸前だったというから、おそらく白内障や強い老眼があって、老眼鏡機能のある軍配でもあったのかな、と勝手に想像した。また、めざましい武功を上げながら、かすり傷一つも負ったことがなかった本多忠勝は蜻蛉切と呼ばれる大槍の名手だった。その槍の先端部分が展示されていたが、これがとても大きい。そして「八幡大菩薩」の文字が刻まれている。遠く離れた敵にもこの槍が放つ光が見えたことだろう。小牧・長久手の戦の際、秀吉の大軍の前に一人立ちはだかり、馬を川に入れて悠然と口を洗わせたため、秀吉が攻撃をためらった、という話も理解できる。メインでない展示物にもいろいろと面白味があるものだ。

2017年9月22日 (金)

神経質礼賛 1428.逃げずに目の前のことを一生懸命やる

 3日前、パソコンのブラウザのスタート画面に興味を引くニュース記事があったので読んでみた。記事の出所は週刊女性PRIME。京菓子の老舗・笹屋伊織の女将の田丸みゆきさんの話である。嫁いだ時、店は傾きかけていたが、今では売上は当時の7倍、従業員数も3倍になったという。その田丸さん、中学時代は極度の「あがり症」で、授業中に先生からさされただけで冷汗が出てパニックになっていたそうである。しかし、周囲からはできる子と評価されていた。これは自己評価が低い神経質人間にはよくあることだ。心配性の田丸さんは「受験で失敗したらどうしよう」と極度に心配してランクの低い高校を選んでしまった。高校入学後、そんな自分を不甲斐なく思っていたが、周囲からは、明るくスポーツが得意で勉強もよくできる子と見られていた。ある時、ラグビー部の男子部員と話をしていて、その子は勉強ができなかったけれど、ラグビーの強豪校に入りたくて一生懸命勉強して今の高校に合格できたと聞いて、自分は卑怯で逃げていて、不満ばかり言い、先生や親のせいにして被害者ぶっていた、と気付いた。それからは、逃げずに今、目の前にあること・できることを一生懸命やろうと決心したそうである。あがり症を克服しようと、短大時代にはラジオ番組やTV番組のアルバイトに挑戦した。証券会社に就職し、その後いくつかの仕事を経験しているうちに、あがり症はどこかに行ってしまったようだ。最初の証券会社の縁で、現在の夫と知り合い、老舗の京菓子店に嫁いだ。決して順風満帆に事が進んだわけではなく、失敗や挫折も少なくなかったが、ピンチの際には逃げずにできることを一生懸命にやる、という方針を貫き通した。今では商売がうまくいっているばかりでなく、TV番組のコメンテーター、講演会の講師として引っ張りだこになっているという。

 以前、俳優の竹中直人さんが、恥ずかしがりだったことを書いた(484)し、萩本欽一さんも極度のあがり症だったことも書いた(1061)。対人恐怖の人は自分ばかりが苦しい、と思いがちだが、実はTV番組で大活躍しているような人の中にも対人恐怖の苦しみにさいなまれていた人はいるのである。大事なことは、苦手な場面で退却せずに、苦しいまま仕方なしにできることをやっていく。それを積み重ねていくことである。失敗や挫折はあっていい。行動を続けていれば、失敗や挫折は逆に肥やしになる。そして、成功しても思い上がらないのが神経質の美点であり、完全欲を活かして、ますます発展できるのだ。

2017年9月19日 (火)

神経質礼賛 1427.肘外に曲がらず

 拙著を希望されたWさんからお手紙をいただいた。Wさんはかつて鈴木知準診療所で入院森田療法を受けた御経験があるそうで、その際、知準先生から言われた「肘外に曲がらず」という言葉の通り、どうにもならないと観念し今を夢中になってやっているうちに、症状のあるなしを問わない生き方が身についていったとのことである。この言葉は、日本の禅文化を世界に紹介した仏教学者の鈴木大拙師(1870-1966)が見性(けんしょう:自己に備わっている本性を見究めること)体験した時の言葉ということだ。知準先生の治療を受けた、いわゆる「鈴木学校」経験者の方々からは、いろいろと貴重な御経験を聞かせていただき、大変ありがたい。

 肘外に曲がらず、当たり前じゃないか、と言われるかもしれない。その通り。正常な人間の場合、肘を外に曲げることはできない。もし外に曲げることができて自由自在に動かせれば便利かもしれないが、それはかなわないのだ。この言葉は森田療法の「あるがまま」に通じると思う。神経質者は、人前で緊張せず赤面もしないことを望んだり、どんな日でも熟睡することを望んだり、不安をすっかりなくしたいことを望んだり、と、ないものねだりをしがちである。そして不可能の努力をするのであるが、それは肘を外に曲げようとするのと同じことであり、不可能なことなのだ。不安も緊張も自然なことであって、どうにも仕方がないものとあきらめて、目の前のやるべきことに取り組んでいくのが森田療法である。そして行動を積み重ねていくうちに、結果として、いつしか不安も緊張も気にはならなくなっているのだ。

2017年9月18日 (月)

神経質礼賛 1426.優性遺伝・劣性遺伝の呼称変更

 日本遺伝学会が従来の優性遺伝・劣性遺伝という呼称を顕性遺伝・潜性遺伝に変更したという新聞記事を読んだ。また、「変異」を「多様性」と言い換えるそうである。学校で学ぶメンデルの遺伝学ではエンドウの例を挙げていて、種子が緑色と黄色、シワのないものとあるものを交配すると、それぞれ3:1の比で現れるというあたりは覚えていらっしゃる方も多いだろう。形質として現われやすい方を優性、現われにくい方を劣性と呼んでいる。しかし、ヒトの遺伝について優性とか劣性とか言ってしまうと、あたかも優れた人、劣った人というような誤った印象を与えてしまう。

 小学校3・4年の時の同級生に血友病の子がいた。体育の授業の時に転んで膝をすりむいたり、鼻血が出たりすると、なかなか血が止まりにくかった。時々学校を休むこともあったから、学校から配布されるプリントなどを家に届けてあげた。学校の先生から彼は血友病という血が止まりにくい病気だと聞いていた。事典を見るとイギリスのヴィクトリア女王の家系の例とともに、伴性劣性遺伝について書かれていたけれども、「劣性」という言葉がとても嫌な感じがした覚えがある。一方、医学部に入って学んだ数多くの病気の中には優性遺伝するものもある。名称は「優性」でも、子孫に影響が大きいので、当事者にとっては大変深刻である。

 優性・劣性は直訳から出てきた言葉なのだろうが、こと病気に関しては、当事者や関係者の身になって考えたら、思いやりに欠けた不適切な言葉である。その点、顕性・潜性という言葉は優性・劣性という言葉以上に実態がよくわかるし、誤ったイメージを与えにくい。今回の呼称変更は「ものそのもの」になった良いことだと思う。


 呼称変更という点では、神経症の対人恐怖や赤面恐怖の人の多くが該当する
DSM(アメリカ精神医学会の診断基準)やICDWHOの診断基準)の病名social anxiety disorderの訳が社会不安障害→社交不安障害→社交不安症とコロコロ変更されるのはどうかと思う。著名な教授の講演でもスライドは社交不安症になっているのに社会不安障害と口演していることがある。この変更は「ものそのもの」になっておらず、混乱を招くだけである。いつもICD病名と一字一句同じ病名で自立支援医療や障がい手帳の診断書を書くことを県のお役人様から要求されているので、そろそろ「社会不安障害」と書いた書類が付き返されるようになるのかなあ、と内心思うこの頃である。

2017年9月15日 (金)

神経質礼賛 1425.神経質大戦だった関ヶ原の戦

 今日9月15日は関ヶ原の戦が起こった日である。ただし旧暦の慶長5年9月15日を正確に西暦に換算すると西暦16001021日となり1カ月以上のズレがある。御存知のように東軍は徳川家康を中心とし、西軍は石田三成を中心とし、約20万もの兵が激突した、この日本史上最大級の合戦はわずか半日で東軍の勝利となっている。最近、司馬遼太郎の原作を映画化した「関ヶ原」が話題になっている。司馬作品では家康は悪役となることが多く、やはり映画の宣伝を見ると、三成は愛と正義のため家康は野望のため戦ったとある。しかし、家康も戦乱のない世をめざして「厭離穢土 欣求浄土」を旗印として正義のために戦っているのである。

 石田三成(1560-1600)は近江国石田村の地侍の次男として生まれた。豊臣秀吉の小姓として才覚を発揮。秀吉から重用され、検地奉行として腕を振るい、佐和山19万石を与えられた。朝鮮出兵の際には総奉行として兵糧・武具の調達などの後方支援に力を発揮した。事実上、政権の最高官僚のような存在となったが、加藤清正、黒田長政ら武断派からは反感を持たれていたし、関ヶ原の戦の際に西軍を裏切ることになる小早川秀秋からは三成が秀吉に讒言して領地を削られたことで恨まれていた。秀吉の死後、三成は五奉行の一人となるが、大坂屋敷を加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ら七将に襲撃され、家康の仲裁により佐和山城に戻り蟄居するという事件も起きている。

 家康については当ブログでたびたび紹介しているように神経質人間であり、一方の石田三成もまた神経質人間だと考えられる。神経質ゆえ、秀吉の懐刀として実務に力を発揮できたのだろう。関ヶ原の戦はいわば神経質大戦ということになる。同じ神経質でありながら、三成が敗れた原因はどこにあるのだろうか。家康は桶狭間の戦、三河一向一揆、三方原の戦、本能寺変の際の伊賀越えなど、何度も何度も絶体絶命の大ピンチを家臣たちのおかげで切り抜けてきた。だから、家臣らの意見をよく聞き、独断専行ということはなかった。そして、豊臣恩顧の大名・武将たちとの関係もうまく保っていた。三成にはそうした経験が乏しく、秀吉の庇護の元で大ナタを振るってきたから、傲慢だと見られがちで、他の大名・武将たちから「虎の威を借る狐」と思われてしまったきらいがあるだろう。関ヶ原の戦の前に、三成は盟友の大谷吉継から「お主が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願う者すら内府(家康)の元へ走らせる。安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と忠告されたという。前話に書いたように、神経質は参謀役にはうってつけである。副将ならば三成の力が存分に発揮できる。もしも家康に対抗しうる格を持った毛利輝元が西軍の大将として自ら兵を率いて関ヶ原に参戦していたならば、西軍勝利となった可能性は十分にあった。兵力は概ね互角、陣形は西軍の方が有利ながら、小早川秀秋らの裏切りにより一気に形勢が傾き東軍の勝利となった。神経質は大器晩成型である。苦労を重ねて磨き抜かれた家康の神経質の方が三成の神経質よりも一枚も二枚も上手だったのだろうと思う。

2017年9月11日 (月)

神経質礼賛 1424.神経質は「長」には不向き?

 生活の発見誌8月号・9月(今月)号に「神経質とはどんな性格か」という真保弘(しんぽひろむ:1921-1991)先生の講話が掲載されている。今から40年前の1977年に静岡集談会での講話を同年の10月号に一度掲載したものを再掲した記事である。真保先生は外科医だったが、対人恐怖や神経症に悩まれ、鈴木知準診療所に2カ月間入院治療を受けた経験がおありで、その後、生活発見会の理事や顧問をされて神経質に悩む人々のために尽くされた。講話の中には次のような話がある。

「精神面で考えてみますと、神経質の人は良心的でお人好しな人が多い。それでいて責任感が非常に強いところもある。また罪悪感も強い。人に悪いことはできない。人の悪口はあまり言えない。人に意地悪されるようなところはあるけれども、人に意地悪をしたり、いじめたり、人を陥れるということはありません。だから、神経質の人は政治家にはなれないようです。政治家は嘘つきでなくてはならないし、人を陥れなくてはできない。だから、森田先生もよく、神経質の人は長にはなれない、例えば校長とか市長とか何かそういう長のつく人間には不向きだと言っておられます」

 まさにその通りである。国会議員の政治資金不正流用、オトモダチ業者との癒着、派手な男女関係などは、小心者の神経質には絶対にマネができない。そもそも、票集めのためのウソやハッタリだらけの公約や演説は正直者の神経質にはできないから政治家にはなれそうもない。組織の中でも神経質が合っているのは「長」よりは「副長」である。大将よりは参謀、軍師的な立ち位置が似合っている。周囲に細かく気を配り、失敗をしないようしっかり準備する神経質がガッチリ守りを固めてくれれば、トップは存分に活躍できることになる。もっとも、小さな町工場や商店から創業して一流企業に成長した会社の経営者には神経質も珍しくはない。経営の神様と呼ばれた松下幸之助(211)、海賊の異名を轟かせた出光佐三(689)がその代表格と言えるだろう。そして、経営者として成功した後に私財を投げうってメンタルヘルス岡本記念財団を創立して森田療法の普及に努められた岡本常男さん(269871話)もその一人である。いずれも神経質性格を生かして奮闘しているうちに結果として「長」になっていて、必ずしも神経質は「長」になれない、というわけではない。そして「長」になった時には一味違ったすばらしい「長」になるのである。

2017年9月 8日 (金)

神経質礼賛 1423.起震車(地震体験車)

 一昨日の午後、職員の防災訓練の一環として、病院に起震車がやってきた。院内の会議に出ていたので、私が乗ったのは大部分の職員が体験した後だった。廊下ですれ違った人たちが「震度7はホントに怖い」と口々に言うのを聞いて、恐る恐る起震車に乗る。大型トラックの荷室内に鎖で床に繋がれたテーブルと4つの椅子があり、他の職員と一緒に座る。まずは震度6弱の体験。横揺れが激しく、片手で横の手摺につかまってしのぐ。次が震度7の体験。震度6弱の比ではない。テーブルが動き出し、座っている椅子もすべり、自分の体を支えるのは困難だ。頭を手摺にぶつけないようにするだけで精一杯だった。実に恐ろしい。

 このような大地震がきたら、何もできないだろう。まずは、とにかく身を守って揺れが収まるのを待つほかはない。特に頭を守ることは重要である。寝ている時に大地震に襲われることもあり得るから、普段から寝室には極力家具を置かないようにした方がよい。そして、家の中の大型家電や収納家具類は固定しておくことが大切だ。揺れが収まってから周囲をよく観察し、次の行動を判断することになる。津波襲来の恐れがある時、近くで火災が発生している時には、余震の発生や倒壊した建物や電柱の電線などに注意を払いながら避難しなくてはならない。この判断が命運を分けることになるのだ。

 私が住んでいる地方は、長年、東海沖地震の発生の危険性が言われてきた。しかしながら震度6以上の地震は長いことないから、毎年いろいろな防災訓練を受けていても緊迫感はイマイチである。今回、起震車で大地震の揺れを体感してみて、改めてしっかり準備をしておこうということで気が引き締まった。神経質ゆえ、水や食料や防災用品の備蓄はしているけれども、地震はいつ起こるかわからない。心配性を生かしてさらに準備しておこうと思う。

2017年9月 4日 (月)

神経質礼賛 1422.秋海棠(2)

 旧実家にはいろいろな木や草花があったことは何度か書いた。現在の母の家は敷地が従来の4分の1以下の20坪ほど。街中で家が建て込んでいるから「日当たりが悪い」「庭がない」と不平たらたらである。それでも、コンクリート張りの駐車スペースの奥にちょうど1坪サイズの土のスペースがある。ここには旧実家から移植した小さな山椒の木、檜扇(ヒオウギ:1171)、秋海棠(シュウカイドウ:1192)があり、檜扇の花が咲き、秋海棠はここ1カ月以上次々と花を付け、仏壇に供えるのに役立っている。秋海棠は明るくてもあまり直射日光が当たらず、湿気がある場所を好むとのことで、まさにピッタリの場所だったようだ。

 今の家にはエアコンを各部屋に付けたにもかかわらず、母は「エアコンの風は嫌い」と言って使おうとしない。私としては熱中症にでもなったら困ると思って「ボタンを押すだけなんだから使ってよ」と何度も言うのだが、「電気の物は嫌だ」と頑として使わないのである。扇風機すら使っていない。使うのは団扇だけである。それでも、昨年の夏も今年の夏も熱中症になることもなく無事に過ごせたのは「日当たりが悪い」おかげかもしれない。住宅は日当たりが良いに越したことはない。ただし、近年の夏場の暑さからすると、日当たりが良過ぎるのも考え物である。また、強い陽射しは外壁を早く傷めてメンテナンスコストが高くつくということもある。長所は短所に、短所は長所にもなりうるのだ。人の性格も同じである。その性格をうまく使いこなすかどうかによるのである。

2017年9月 1日 (金)

神経質礼賛 1421.数独(ナンプレ)

 最近、急に妻が新聞の「数独」をやるようになった。帰省した息子に「母さんは頭を使っていないから早くボケるよ。数独でもやったら」と言われたためだ。自宅で取っている毎日新聞には朝刊・夕刊とも数独の問題が1題ずつ載っている。毎日やるのは大変らしく、時々やり残している。それを見て私も試してみる気になった。初級の問題が多いが、最初は要領がつかめず、かなり時間がかかった。だんだん短い時間で解けるようになってきた。

 数独はナンプレ(ナンバープレース)とも呼ばれている。数独という名は「数字は独身に限る」というところから来ているのだそうだ。9×9のマスがさらに3×3のブロックに分かれている。それに1から9の数字を入れていく。タテ、ヨコそしてブロック内には同じ数字が入らないように入れるのがルールである。最初に置かれている数字・例えば「1」の縦列と横列のマスには絶対に「1」は入らないので、他の「1」の縦横も見て行くと、「1」が置かれていないブロック内に消去法で「1」が入るべきところが決まる場合がある。「1」がダメなら、「2」や「3」について順々に調べて行く。こうして順次数字が埋まっていく。縦、横、あるいはブロック内に一つだけ空白のマスが残ったら残りの数字を入れればよいので、これも埋まる。そんな要領で解いていく。うっかりすると、同じブロック内に同じ数字を入れる間違いをやってしまうことがあるから注意が必要だ。

 今まで何年も夕刊の1面に問題が載っていながら気にも留めなかった。実にもったいない。碁や将棋の問題と違って誰でも簡単に取り組める点が優れている。食事や風呂の待ち時間、他にやることがなければ、やってみようと思う。ボケ防止、神経質の鍛錬に役立ちそうである。何でもパソコンやスマホの時代だけれども、たまには鉛筆を手にして数独を解くのもよい。

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