神経質礼賛 1425.神経質大戦だった関ヶ原の戦
今日9月15日は関ヶ原の戦が起こった日である。ただし旧暦の慶長5年9月15日を正確に西暦に換算すると西暦1600年10月21日となり1カ月以上のズレがある。御存知のように東軍は徳川家康を中心とし、西軍は石田三成を中心とし、約20万もの兵が激突した、この日本史上最大級の合戦はわずか半日で東軍の勝利となっている。最近、司馬遼太郎の原作を映画化した「関ヶ原」が話題になっている。司馬作品では家康は悪役となることが多く、やはり映画の宣伝を見ると、三成は愛と正義のため家康は野望のため戦ったとある。しかし、家康も戦乱のない世をめざして「厭離穢土 欣求浄土」を旗印として正義のために戦っているのである。
石田三成(1560-1600)は近江国石田村の地侍の次男として生まれた。豊臣秀吉の小姓として才覚を発揮。秀吉から重用され、検地奉行として腕を振るい、佐和山19万石を与えられた。朝鮮出兵の際には総奉行として兵糧・武具の調達などの後方支援に力を発揮した。事実上、政権の最高官僚のような存在となったが、加藤清正、黒田長政ら武断派からは反感を持たれていたし、関ヶ原の戦の際に西軍を裏切ることになる小早川秀秋からは三成が秀吉に讒言して領地を削られたことで恨まれていた。秀吉の死後、三成は五奉行の一人となるが、大坂屋敷を加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ら七将に襲撃され、家康の仲裁により佐和山城に戻り蟄居するという事件も起きている。
家康については当ブログでたびたび紹介しているように神経質人間であり、一方の石田三成もまた神経質人間だと考えられる。神経質ゆえ、秀吉の懐刀として実務に力を発揮できたのだろう。関ヶ原の戦はいわば神経質大戦ということになる。同じ神経質でありながら、三成が敗れた原因はどこにあるのだろうか。家康は桶狭間の戦、三河一向一揆、三方原の戦、本能寺変の際の伊賀越えなど、何度も何度も絶体絶命の大ピンチを家臣たちのおかげで切り抜けてきた。だから、家臣らの意見をよく聞き、独断専行ということはなかった。そして、豊臣恩顧の大名・武将たちとの関係もうまく保っていた。三成にはそうした経験が乏しく、秀吉の庇護の元で大ナタを振るってきたから、傲慢だと見られがちで、他の大名・武将たちから「虎の威を借る狐」と思われてしまったきらいがあるだろう。関ヶ原の戦の前に、三成は盟友の大谷吉継から「お主が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願う者すら内府(家康)の元へ走らせる。安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と忠告されたという。前話に書いたように、神経質は参謀役にはうってつけである。副将ならば三成の力が存分に発揮できる。もしも家康に対抗しうる格を持った毛利輝元が西軍の大将として自ら兵を率いて関ヶ原に参戦していたならば、西軍勝利となった可能性は十分にあった。兵力は概ね互角、陣形は西軍の方が有利ながら、小早川秀秋らの裏切りにより一気に形勢が傾き東軍の勝利となった。神経質は大器晩成型である。苦労を重ねて磨き抜かれた家康の神経質の方が三成の神経質よりも一枚も二枚も上手だったのだろうと思う。
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