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2017年11月27日 (月)

神経質礼賛 1450.自反尽己(じはんじんこ)

 母方伯母の法事が宝泰寺であった。静岡駅すぐ近くのこの寺は臨済宗のお寺であり、境内のあちこちに「わらべ地蔵」がいて微笑ましい。いろいろなポーズを取っている。中には二人でじゃんけんをしているように見えるもの、後ろから手で目隠しをして「だーれだ?」とやっているように見えるものもあって、眺めているとつい顔が緩み、時間を忘れてしまう。京都・三千院のわらべ地蔵と同じく作者は藤枝市の石彫家・杉村孝さんである。

 お経をあげる前に住職・藤原東演さんのホワイトボードを使っての説法があった。孟子の自反尽己という言葉の話だった。常に自分を反(かえり)み、精一杯自分の力を出していく、という意味である。「経営の神様」松下幸之助の言葉「うまくいった時は皆のおかげ、うまくいかなかった時は自分に原因がある」、ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんの言葉「うまくいった時はおかげ様、うまくいかなかった時は身から出た錆」を引用して自反尽己を説明しておられた。


 
 神経症にとらわれている人は、うまくいかない原因を親のせいにしたり周りの人のせいにしたりして、「どうせダメだ」とひねくれて、自分が努力し行動することを放棄しがちである。幼弱性という言葉があてはまる。そういう姿勢を続けていたのでは、いつまでたっても症状から脱却できない。しかし本来、神経質人間は内省心が強いので、常に反省しながら粘り強く行動を重ねて行けば、つまり自反尽己を心がけて行けば、人並み以上どころかすばらしい結果がついてくるのである。「しかみ像」を座右に置き常に慢心を戒め反省していた徳川家康(209)、「失敗の原因はわれにあり」と就寝前の一時間を一日の反省の時間に充てていた松下幸之助(211話)の例を挙げるまでもないだろう。反省した上でそれを次の行動に生かして行く。最強クラスの人生訓だと思う。

2017年11月24日 (金)

神経質礼賛 1449.アニメソング

 ニュース番組を見ていたら、このところ、アニメソングをフルオーケストラで演奏するコンサートが人気だという話題を取り上げていた。宮崎アニメの音楽で有名な久石譲さんの作品は以前からオーケストラで演奏されることがあったし、ピアノ版や弦楽四重奏版の編曲楽譜が早い段階で発売されてきた。伴奏CD付のヴァイオリン楽譜もあって、私も持っていて、時々楽しく弾いている。一方、毎週放送されていたようなアニメの音楽に脚光が当ることはなく、これまではあまり目立たない存在だった。しかし、短いテーマソングやアニメの決まった場面で流される曲も実によく作られた作品が少なくない。そのまま時代の流れに消えていってしまうのは惜しい。そうした作品を編曲しメドレーにしてフルオーケストラの演奏で楽しめるというのはよいことだと思う。

 私は初期のアニメ世代である。小学生の頃は白黒テレビで「鉄腕アトム」「鉄人28号」「エイトマン」をワクワクしながら、「オバケのQ太郎」「パーマン」「おそ松くん」を笑いながら見て育った。同学年の女の子たちも「魔法使いサリー」「リボのン騎士」「ひみつのアッコちゃん」などを夢中になって見ていたのではないだろうか。当時はCDもカラオケもなかったけれども、皆、アニメのテーマソングを口ずさんでいたものだ。鉄腕アトムのテーマソング前奏のド→レ→ミ→ファ#→ソ#→ラ#→ドという全音階は頭に焼き付いていて、これを聞いただけでワクワクするという条件反射ができあがっていた。

 たまにはちょっと一休み。懐かしのアニメソングを聴いて童心に帰るのも悪くない。ネット上から拾ってくればいいじゃないかという向きもあるだろうけれども、公立図書館の視聴覚資料コーナーでTV主題歌CDを物色すればいくつも見つかる。本を借りるばかりが図書館ではない。せっかくの資料があるのだから少しでも利用しよう。

2017年11月20日 (月)

神経質礼賛 1448.慧可断碑図

 現在、京都国立博物館(略称:きょうはく)で国宝展が開催されていて、歴史の教科書の写真でよく見るような、縄文土器から始まり数多くの書画が展示中とのことだ。TV番組で見ると、その中には雪舟の慧可(えか)断碑図があった。慧可は達磨の弟子にしてもらおうと何度も達磨のもとを訪ねる。しかし、達磨は見向きもせずに座禅を続けている。ついに慧可は自分の腕を切り落として達磨に示す。雪舟の絵では、切り落とした腕から血が流れている。

 私はどうも、この絵は苦手である。普段、リストカットするとスッキリすると言う患者さんたちに、「自分を傷つけるよりも、つらい気持ちを少しでも言葉に示してみようよ」と話している立場からして、いくら真剣な覚悟を示すためだとはいっても腕を切り落とすなどとんでもない行為に思える。出血多量で死ぬかもしれない。腕を無駄にせず、求道のため、布教のために精一杯使うべきなのではないか。実は慧可はもともと片腕がなかったために、断碑伝説ができたという話もあるようだ。

昨年の秋、東京国立博物館で特別展「禅 心をかたちに」で雪舟のこの絵の実物を見ている。その時の展示の中には白隠が描いた大分・見星寺所蔵の慧可断碑図もあった。これは今にも刀で腕を切り落とそうという場面である。不覚にも絵の上部に書かれた賛を読んでいなかったが、「自分の手を断って心眼を開くなど、なんと無駄な行為だ」ということが書かれているそうだ。白隠さんに同感である。

慧可は「求不可得(もとめてうべからず)」という言葉を残していて、森田先生も患者さんの指導の中で使っている(750)。解決を求めてあせっても、道は開けない。神経症に悩む人は手っ取り早く症状をなくそうとあくせくする。しかし、そのようにはからえばはからうほど注意が自分の方に向いて症状を固着させるという悪循環に陥ってしまうのである。また、人前で緊張しないようにしたい、などはそもそも不可能なことである。いくら求めても得られないのだ。遠回りのようでも、今、目の前の仕事に手を出していく。それが実は最短ルートなのである。

2017年11月17日 (金)

神経質礼賛 1447.個人消費の低迷

 新聞の1面トップに「GDP1.4%増 7期連続プラス17年ぶり」という見出しが踊る。株価もバブル崩壊以後の最高値を記録した。政府はアベノミクスのおかげと喧伝する。しかし、景気が良いという実感はなく、個人消費は低迷したままである。日本において最大の株主は実は日本銀行であるという新聞記事もあった。日銀が金融緩和のためと称して投資信託などに大量の資金を流して結果的に株を買い支えているのである。これではイカサマ賭博のようなものだ。マイナス金利政策という資本主義経済の基本を破壊するような無理をしているから、銀行業界はサラ金まがいのカードローンに力を入れざるを得なくなった。それでも、青息吐息らしく、今週、大手銀行グループが相次いで数千人規模の大リストラ計画を発表した。本当の景気回復ではなく、偽装景気に過ぎないのである。それを見透かして、儲かっているはずの企業も内部留保に余念がない。

 あるニュース番組で個人消費が低迷している原因を追究していた。働く主婦のインタビューで、「これから子供の教育費がかかるから、食費は週1万円以内に抑えている」という話があった。てっとり早く節約できるのは食費と衣料品費だけれども切ない話である。奮発して車を買おうとか家を建てようどころではない。

個人消費が低迷している最大の理由はやはり将来の不安ではないかと思う。少子高齢化がどんどん進み、現在の社会保障レベルを維持するには消費税を20%や25%に上げても追いつかないという話もある。このままでは年金も破綻するから支給水準をどんどん下げざるを得なくなるのは目に見えている。若い人たちにとって年金は「ぼったくり詐欺」である。そういう都合の悪い真実はひた隠して、バラマキ政策だけを喧伝して政権を維持している政治家たちを見ているとますます不安になるものである。

しかしながら、モノをたくさん買えることが幸せとも限らない。物の性(しょう)を尽くす(350)・・物を無駄なく大切に使いその物の価値を最大限に引き出す・・は森田正馬先生が実践し、お弟子さんたちや患者さんたちに身をもって教えた生き方である。決してケチなのではなく、森田先生は郷里の小学校に多額の寄付をしていたし、慈恵医大に奨学金を出したりもして、人のためになるように特に将来の日本を担う若者のためにお金を使っていたのだ。それに、あまりお金をかけずとも工夫すれば、楽しめる趣味はあるし、教養を高めることもできる。質実剛健の森田的生き方はこれからの時代を生き抜いていく上で役に立つのではないかと思っている。

2017年11月14日 (火)

神経質礼賛 1446.霜月

 このところ、朝が冷え込むようになってきた。旧暦の霜月の名にふさわしい気候である。昼との寒暖の差が大きいこともあってか風邪をひく人が増えている。病院内でも入院患者さん、そして職員の風邪ひきさんを見かける。今のところ院内ではインフルエンザは発生していない。風邪で熱や鼻水や咳が出ていると、以前は風邪薬、さらには咳が出ているような人には細菌性の二次感染防止の意味もあって抗生剤を処方していたが、現在は通常の風邪には極力、薬を処方しない流れになっている。それはそれで良いことながら、高齢者や易感染性の人の場合は心配である。今年はインフルエンザワクチンの生産が遅れ、品薄となっている。院内の患者さんや患者さんに接する職員に対するワクチン接種は例年より1週間程度遅れている。

 11月は気ぜわしいと以前書いたが(721話)、それから6年経った今も同じようにバタバタしていて、何ら進歩がない。担当患者さん全員の予防接種の注射箋を書いてカルテに記載した。年末調整用の書類を書いて保険などの支払証明書を揃えて事務に提出。デパートへ御歳暮の注文にも行った。そろそろ年賀状も買って来ないと。年1回の浄水器カートリッジ交換の時なので注文しなくては。おっといけない。通勤定期がそろそろ切れる。今回の3泊連続当直明けの日までは何とかもつか。月の後半には同窓会の集まりや法事が控えている。落ちがないように神経質を発揮して準備していこう。

 現在、来月に院内のクリスマス会で弾く曲目を決めて、伴奏音源CDとUSBを製作中である。持ち時間20分なので4-5曲演奏できる。市販の伴奏CDの音源と、楽譜をパソコンに入力してソフトシンセサイザーで作った自作音源とが混在しているので、音の大きさにバラツキがある。一旦MP3ファイルに変換し、音の大きさを変えるソフトで調整し、MP3ファイルからWAVファイルに戻している。曲間に解説を入れる時間を考慮して、15秒ほどの無音データを間に挟んでからCD-RWに焼く。実際にそれに合わせて弾いてみて何度も試行錯誤しながらの調整で、こういう手間のかかることには神経質はとても向いている。

2017年11月13日 (月)

神経質礼賛 1445.緊張はあってよい

 昨日NHK-FMをかけていた。夜820分にリサイタル・ノヴァという番組になり、クライスラー作曲の「中国の太鼓」が流れていた。その後、演奏者の中村友希乃さんという若手ヴァイオリニストのインタビューになった。中村さんは海外のコンクールで優秀な成績を収めているという。「コンクールでは緊張すると思いますが、緊張をほぐす方法って何かありますか」という質問があった。それに対して中村さんは「海外の優秀な演奏者たちのアーカイブビデオを見ると、ああ、この人も緊張しているんだなあ、だから緊張するのは普通だし、緊張して悪くないんだ、と思うようになりました」というような発言をしておられた。番組ホームページには中村さんの写真とともにインタビューの7つの質問と回答が紹介されているが、残念なことにこの質問と回答は載っていない。緊張に悩む人にとても役立つ貴重な話なのに。


 緊張については、今まで当ブログに繰り返し書いてきた。私自身、若い頃は対人恐怖にひどく悩んだし、人前で激しく緊張するのは今でもある。一流のピアニストやヴァイオリニストだって演奏会では緊張するものだし、俳優やお笑い芸人も同様なのである。緊張するのは正常な反応であって、緊張しないような時には、調子が悪い時だったり、大失敗をする時だったりするのだ。

 ところが、神経質人間はともすれば、自分ばかりが緊張して情けない、何とか緊張しないようになりたい、と「不可能の努力」をしているうちにますます注意が自分に向いて緊張を強めてしまうのである。誰もが緊張するのだし、緊張はあってよいのだ、と緊張を消そうとせずにそのままにしておくのがよいのである。

2017年11月10日 (金)

神経質礼賛 1444.徹底的

 強迫症状があって外来通院している人が数人いる。鍵のかけ忘れの確認、頻回の手洗い、運転中に事故を起こしたのではないかと気になって戻る、などいろいろな人がいる。駐車場で車が斜めになっていないか気になって何度も入れ直すなどは、私にも少々心当たりがある。強迫観念だけで収まっているうちはまだよいが、強迫行為をやりだすと回数が増えて収拾がつかなくなる。確認や手洗いは1回に留め、気にはなっても次に進むということが大切である。完全欲や徹底さも制限時間の中に収めて行動すれば生きてくる。森田先生は次のように言っておられる。


 
 この神経質の徹底的という事が、最も有難いところである。昔から釈迦でも、白隠でもその他の宗教家でも、哲学者でも、皆徹底的に苦しみ抜いた人ばかりである。少しも煩悶し苦労した事のない人にろくな人はない。

 ここでも、倉田氏でも佐藤氏でも、徹底的に強迫観念に苦しんだ人である。「大疑ありて大悟あり」で、その人は必ず、生来立派な人間であって、それが悟って成功したのである。この点から諸君は、ただ私のいう事を丸のみに聞いて、徹底的に苦しむべきを苦しみさえすれば、それで万事が解決するのである。 第5巻 p.82


 
 ここで倉田氏というのは劇作家の倉田百三(1891-1943)のことである。その症状は渡辺利夫著『神経症の時代』の冒頭に詳しく書かれている。「連鎖恐怖」「いろは恐怖」「計算恐怖」と自ら表現する激しい強迫観念のため創作活動はおろか日常生活にも支障をきたして森田先生のところに通院し、強迫を乗り越えることができた。その後は創作活動を再開している。

 強迫症状のあった作家ということでは、以前どこかで書いた泉鏡花(1873-1939)がいる。不潔恐怖(ばい菌恐怖)が強く、生の物は一切食べなかった。赤痢にかかったのがきっかけらしい。菓子は火であぶってから食べ、指をつけた部分は捨て、酒も一旦沸騰させてから飲むといった徹底ぶりだった。コレラを恐れて毎日のように湯豆腐ばかり食べていたこともあったが、豆腐の「腐」という字を嫌って豆府と書いたという。仕事はとても几帳面で、原稿は校正後に必ず回収して自分で保管していたそうである。その神経質さから細密な描写表現が生まれたのかもしれない。

2017年11月 8日 (水)

神経質礼賛 1443.ヒルドイドの化粧品としての使用問題

 皮膚科で処方される薬にヒルドイドというものがある。時々、難治の褥瘡の入院患者さんを皮膚科で診てもらうと、それを塗布するよう指示されることがある。ヒルドイドはヘパリン(抗凝固剤の一種)類似物質であり、皮膚血流増加作用・皮膚の角層水分保持増加作用を持ち、外傷、凍瘡、ケロイドの治療と予防などが適応疾患である。本来は保健適応外だが、難治性のアトピー性皮膚炎にも使われている。ところが、芸能人が「美容にいい」「アンチエージング効果がある」などと週刊誌やネット上で発言したのをきっかけに化粧品代わりに処方を求める女性が増えて、一部では品薄になっているとか、医療費増大を招いくので保険扱いからはずそうという動きが出ている。求めに応じて安易に大量処方しているクリニックも問題視されている。逆に、美容目的の処方を断ってネット上にクリニックの悪い評判を流された、という話もあるようだ。とにかく本来必要な患者さんが薬を使えないという事態は困る。

 確かに薬価を見るとヒルドイドソフト軟膏・クリーム・ローションとも1g当たり23.7円であり、尿素系保湿剤のウレパールの6.6円に比べると3倍以上と高い。それに、副作用として発赤、発疹、掻痒が出現することもあるし、出血性疾患がある人は使用禁忌である。気安く使い続けて皮膚トラブルをきたす恐れもあるのだ。

 健康効果がマスコミで取り上げられて納豆などの売れ行きが一時的に急上昇することはあるが、普通の食品ではさほど問題はない。医薬品では安易な使用で逆に健康を損なうこともあるので、〇〇がいいというマスコミやネットの情報に飛びつかない方がよい。その点、万事慎重な神経質の方々は安心である。

2017年11月 6日 (月)

神経質礼賛 1442.「存亡の危機」か「存亡の機」か?

 11月4日付毎日新聞朝刊の「校閲発 春夏秋冬」というページに「存亡の危機」という言い方が誤用かどうかという記事があって興味深く読んだ。文化庁の世論調査では、存続するか滅亡するかの重大な局面をどう表現するか、で「存亡の機」とした人はわずか6.6%に過ぎず、「存亡の危機」とした人が8割以上だったが、文化庁は「存亡の機」が本来の言い方だとしている、とのことである。「存亡の危機」は新聞や雑誌の見出しや記事で、経営が悪化して倒産寸前の名門企業や弱小政党の表現によく登場する。有名作家の小説の中でも法律の文言の中でも使われているとのことだ。そして、「存亡の機」の使用例はほとんどないという。愚考すると、存続と滅亡は反対の言葉だから「存続の危機」とした方が適切なのだが、「存亡の危機」とした方が切羽詰った様子が伝わるように感じる。実は「存亡の危機」も「存亡の機」とも辞書にはほとんど載っていないとのことだ。ただし、三国志で有名な諸葛孔明が「出師(すいし)の表」の中で「存亡の秋(とき)」と述べた言葉は辞書に載っているという。新聞の記事では、「存亡の機」を文化庁が本来の言い方として決めつけ「存亡の危機」が誤用であるような印象を与えるのはおかしい、難しく考えなくてよいのではないか、と結論付けている。

 校正の仕事は非常に神経質でなければ勤まらない。著者が見落としたミスや不適切な表現を探し出して訂正するのである。拙著を出版した時にも白揚社の編集者さんにずいぶん手直ししていただいたものだ。単純なミスや言葉の誤用や言い回しのまずい所だけでなく、時には「言葉狩り」に近いのではないかと思うものもある。「製薬メーカー」という表現がNGとされて「製薬会社」に訂正した。確かにメーカーという言葉は製造会社を意味するから、「女の婦人」と同様の重複表現にあたる。しかし、実際の医療現場では「製薬メーカー」という表現はよく使われていて、医療系雑誌や医療系サイト、それこそ製薬会社が配布しているパンフレットでも見かける。厳密には誤用であっても言葉は生き物であって、だんだん変化していくものなのである。

2017年11月 3日 (金)

神経質礼賛 1441.高きを仰ぐ

 一昨日の新聞各紙朝刊の地方版は秋季高校野球東海地区大会で静岡高校が2年連続優勝したことを大きく写真入りで報じていた。近年、高校野球の強豪校は私立高ばかりである。学校にとって大きな宣伝になるので、練習施設に金をかけ、遠くの都道府県から特待生を集めている。そんな中、公立高としてはよく健闘していると思う。

静岡高校の校訓は高(こうこう:高きを仰ぐ)であり、校門を入ってすぐの所に碑がある。恥ずかしい話、私は卬の字を知らず、印の字と見間違えて印高って何だろう?と思っていた。卬は立っている人とひざまずいている人を表す会意文字なのだそうで、通常、音読みはゴウ、訓読みは、あおぐ、のぞむ、などである。同校の校舎からはグランド越しに富士山をのぞむことができ、校歌にも「理想は高し富士の山」とある。


  完全欲が強い神経質人間も「高きを仰ぐ」である。理想が高く、よりよく生きたいという生の欲望が人一倍強い。それが仕事や勉強や日常生活に向かって建設的な行動を積み重ねれば、神経質の特性を十二分に発揮して活躍することができる。ところが、方向が内向きになると、生の欲望とは表裏一体の死の恐怖に目が行って、自分の悪い所探し、症状探しにエネルギーを空費することになる。高い理想が「かくあるべし」となって現実とのギャップに苦しむのである。

赤面恐怖と強迫観念に悩み、森田正馬先生のところに入院していた帝大文科(東大文学部)の学生さんは、日記に「(森田)先生と神経質患者との境は紙一重である。紙一重をへだてゝ、一方は明るい生の欲望に燃え、片方は、暗い死の恐怖に喘いで居る」(白揚社:森田正馬全集      第4巻 p.126)と書いている。その紙一重を左右するのは何か。苦しいながらも行動するかどうか、ただ一点である。むずかしい理屈はいらない。

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