神経質礼賛 1448.慧可断碑図
現在、京都国立博物館(略称:きょうはく)で国宝展が開催されていて、歴史の教科書の写真でよく見るような、縄文土器から始まり数多くの書画が展示中とのことだ。TV番組で見ると、その中には雪舟の慧可(えか)断碑図があった。慧可は達磨の弟子にしてもらおうと何度も達磨のもとを訪ねる。しかし、達磨は見向きもせずに座禅を続けている。ついに慧可は自分の腕を切り落として達磨に示す。雪舟の絵では、切り落とした腕から血が流れている。
私はどうも、この絵は苦手である。普段、リストカットするとスッキリすると言う患者さんたちに、「自分を傷つけるよりも、つらい気持ちを少しでも言葉に示してみようよ」と話している立場からして、いくら真剣な覚悟を示すためだとはいっても腕を切り落とすなどとんでもない行為に思える。出血多量で死ぬかもしれない。腕を無駄にせず、求道のため、布教のために精一杯使うべきなのではないか。実は慧可はもともと片腕がなかったために、断碑伝説ができたという話もあるようだ。
昨年の秋、東京国立博物館で特別展「禅 心をかたちに」で雪舟のこの絵の実物を見ている。その時の展示の中には白隠が描いた大分・見星寺所蔵の慧可断碑図もあった。これは今にも刀で腕を切り落とそうという場面である。不覚にも絵の上部に書かれた賛を読んでいなかったが、「自分の手を断って心眼を開くなど、なんと無駄な行為だ」ということが書かれているそうだ。白隠さんに同感である。
慧可は「求不可得(もとめてうべからず)」という言葉を残していて、森田先生も患者さんの指導の中で使っている(750話)。解決を求めてあせっても、道は開けない。神経症に悩む人は手っ取り早く症状をなくそうとあくせくする。しかし、そのようにはからえばはからうほど注意が自分の方に向いて症状を固着させるという悪循環に陥ってしまうのである。また、人前で緊張しないようにしたい、などはそもそも不可能なことである。いくら求めても得られないのだ。遠回りのようでも、今、目の前の仕事に手を出していく。それが実は最短ルートなのである。
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