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2017年12月15日 (金)

神経質礼賛 1456.風吹不動天辺月(風吹けども動ぜず、天辺の月)

 朝晩の寒さが厳しくなってきた。最低気温は2月並みである。仕事帰りに北西の季節風が吹き曝しの三島駅ホームで電車を待つのが長く感じられる。時々強風が吹くと震え上がるけれども、仕方なく待つだけだ。そんな時、電車の遅れのアナウンスがあるとガッカリである。仙厓さんの「気に入らぬ 風もあろうに 柳哉」(89)のように受け流すしかない。

 禅語にはそれと似たような言葉がある。風吹不動天辺月・・・いくら風が吹こうと天上の月は動ぜず無心に輝く。森田正馬先生の形外会でこの言葉を振りかざした参加者に森田先生がコメントしたくだりがあるので御紹介しておこう。


 
窪田氏 私は中学時代、参禅したが、先生の治療法は、禅の心境と殆ど変わりがないようである。神経質には参禅もよいと思う。「北風吹けども動かず、天辺の月」という様な心持で、結跏趺坐(けっかふざ)していると、神経質なんぞは飛んでしまう。雲がかかっても、晴れても、やはり月は独り皓々(こうこう)と照らしているという心境は立派なものです。

 古来、日本の偉人はみな参禅している。正成でも、西郷隆盛でも・・・禅はインドから支那を経て我国へ来て初めて完成したともいえる。


 
森田先生 今の窪田君の月の喩えなどは、ここの療法で、この事を患者が聴き損ない、思い違えてはいけない。それは月ならば、気がないから、それでよかろうけれども、人間は有情のものであるから、雲がかかれば、じれったく、晴るれば気分が清々するという風に、人の心は細かく感じ幽玄に思い、適切に反応しなければいけない。ちょっと思い違えると、ここの治療を誤るのであります。

 身を捨てるとかいっても、実際に捨てられるものではない。空々寂々になるとかいっても、その通りになれないのが、我々の本来性であるから、無理な考え方をすると、かえって強迫観念になるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.85)


 
 せっかくの禅の言葉も「かくあるべし」(250)に陥ると、かえって強迫観念になってしまうという御注意なのである。月のようにいくら風が吹いても全く動じない人間になろうとしてもなれるものではなく、それこそ「不可能の努力」(570)である。臨機応変に、例えば冷たい北風には手袋をしたりマスクをしたりといったその時できる工夫はした上で、様々な考えを浮かべながら、仕方なしに我慢する。それで充分なのである。

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