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2018年1月29日 (月)

神経質礼賛 1470.腹の立つ時どうすれば腹が和らぐか

 長らく不定期に通院している外来患者さんがいる。強迫症状はあるけれども薬は処方していない。この人は転職を繰り返していて、いずれも人間関係がうまくいかず辞めている。本人もそれほど作業能力が高い人ではないのだが、自分より仕事ができない人を見ると腹が立って当たり散らしてしまう。そして、嫌っている人には挨拶もしない。これでは職場でも浮いた存在になってしまう。気分はどうあれ、相手が好きであろうと嫌いであろうと、職場では笑顔で挨拶するようにというアドバイスを繰り返しているけれども、なかなかそれができない。


  森田正馬先生の形外会で、腹が立って苦しい時、その相手に思い切って言ってしまえば腹立ちが和らぐか、言った方がよいか言わない方がよいか、と森田先生に質問した入院患者さんがいた。それに対して森田先生は次のように話しておられる。


 八間君が腹が立って、三、四時間も経て、まだ胸の中が熱いような感じがするという。これはいたずらに、自分の腹立ちの気分に執着し自分は腹が立たなければ、楽であろうに、なんとかしてこの苦しみがなくなればよいのにとか、その事ばかりに、心を集中するから、いつまでも忘れられない。ただ腹の立つままに、しかたなしに放任しておけば、自然に我々は、「心は万境に随って転ず」という風に、いつのまにか、ほかの事柄に、心が紛れて、じきに忘れてしまうはずである。これが自然の心である。神経質の自己中心的の執着がある間は、この自然の心はできないのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 
p.272273


 腹が立った時に相手に言ってしまう、というのは子供のすることであって、職場でそれをやったら自分の立場が悪くなる。言った瞬間はスッキリするかもしれないが、後に尾を引いてしまうことになる。やはり、感情の法則に従って、怒りの感情は放置してやるべきことを探してやっていくのが一番である
(247442766)

2018年1月26日 (金)

神経質礼賛 1469.湯豆腐

 寒さが厳しいこの季節、おでんや鍋物といった湯気が上がる食べ物がうれしい。その中でも手軽に作れるのが湯豆腐だろう。以前紹介したように、森田先生も次のような歌を詠んでいる(499)


我妹が 設けて待ちつる 湯豆腐に 一日の疲れ 忘れ果てゝき(森田正馬全集第
7p.445


 我が家でも冬場は、魚の干物の相棒としてよく食卓に登場するのだが(ちなみに夏は冷奴)、正直言ってどうもいま一歩なのだ。なぜだろうかと考えてみる。湯豆腐専門店のような極上の豆腐ではなく、スーパーで買う普通のパック入り豆腐であるのは仕方がない。ミネラルウオーターではなく浄水器を通した水道水を使っているのもそれほど悪くはないだろう。ちゃんとダシの昆布が鍋の底に敷いてある。ワカメとシイタケを入れるのも特におかしいわけではない。となると、やはり土鍋でなく金属製の鍋を使っているのが弱点なのかなあ、と推測する。金属鍋を火にかけると急激に温度が上昇してしまい沸騰させやすく、豆腐の味を落としている可能性がある。土鍋を弱火でゆっくり温める方がまちがいない。また、土鍋だと豆腐が冷めにくいというだけでなく、食卓に置かれた鍋が輻射熱を発するから温かみを感じさせて、一層おいしく感じさせてくれるのではないかと思う。とはいえ、後片付けの手間を考えると土鍋で作ってくれとも言いにくい。おいしいい湯豆腐を作る工夫にはダシ昆布を大量に入れるとか、日本酒を加えてアルコールを飛ばす、とかいうようなことがあるらしい。アルコールは飛ばさなくてよい。いつもの湯豆腐が出てきたら一杯の日本酒をお供させる方が手っ取り早い。そしておいしく食べてしまおうか、と企む。

2018年1月22日 (月)

神経質礼賛 1468.草土記(2)

 『生活の発見』誌には名文発掘プロジェクトというコーナーがあって、過去の森田療法関係者の講演などを紹介している。今月号(20181月号)は「森田先生の思い出」と題する河原宗次郎さん(1901-2002)が昭和6311月に行った講話だった。神田小川町に草土舎という額縁・画材商店を興した河原さんについては、生活の発見会の創始者・水谷啓二さんが自伝風の『草土記』(670)を著してベストセラーになっている。森田先生の厳しい中にも優しさのこもった治療や物の性を尽くすことが徹底された入院生活については草土記の記載と同様であるが、心の変化という点では差異がある。草土記の中では40日間の入院生活で心の状態がガラリと変わった、とあるが、講話の中では「症状は一向にはっきりしない、早く言えば治っていない」と感じていたけれども高い入院費(14円・・・現在で言えば4万円以上)を払い続けるのが厳しいので退院させてもらい、家に帰ったとなっている。苦しくて仕方がなく自分では治ったという実感がなかったが、妻や店員たちから「人相が良くなった」「肥って健康そうになった」と言われてようやく自分の変化に気付いたそうである。そして、退院して一週間ほどして、森田先生が突然店を訪れ、「元気そうだな」と一声をかけて去っていかれたという。

 河原さんは神経質について次のように述べておられる。

「悩みを深めていたときは、私の細かい神経を悪いものと思っていましたが、今では細かい神経を持って生まれて良かったと思っています。細かい神経がマイナスに作用するとやっかいになりますが、細かい神経をもっていたからこそ、女房や家族、店の人や地域の人に細かい気配りができたのだと思います。それを森田先生に教えていただいたのです。気配りとは人にグチや悪口を言わないことです。人間は感情の動物ですから、面白くないことや嫌なことはたくさんあります。しかし、それを口に出してしまったら終わりです。口に出さなければ消えてしまいます。このような気配りができるのも神経質の有難いところです」

 この講話をした時、河原さんはすでに87歳だったはずである。自分が治ればそれでよしではなく、同病相憐れむの精神から、同じような悩みに苦しむ人の役に立つように活動を続ける人たちを輩出したのも森田療法の特筆すべき点だと思う。

2018年1月19日 (金)

神経質礼賛 1467.人を見て法を説け

 森田療法に限らず、すべての精神療法はその人に合った使い方をしなければ効果がないばかりか有害になる可能性もある。同じ症状であっても人の性格特性や能力には個人差があるから、森田療法にしても金科玉条のごとく「あるがまま」「行動本位」を振り回してもうまくいかないことがある。状態によっては薬物療法が必要なこともあるだろうし、症状の辛さに共感して支えながら適度な作業を選択するようアドバイスすることが必要な場合もあるだろう。その時のその人の状態に合わせた診立てが精神療法家には求められるのである。まさに「人を見て法を説け」である。森田先生は次のように言っておられる。


 さて、前に話したように山野井君には、字が全く書けないのに、会社を辞職してはいけないといい、今また、早川君には本人が病気が治らないと思っているのを、家へ帰って家人には治ったといわなければならないというのは、常識からいえば、なんと考えても、無理で、身勝手で、言語道断というよりほかない。しかるに山野井君は、その無理が通って、たちまちにして心機一転して治り、早川君は充分に実行ができなかったがために、全治する事ができなかった。私がこれらの人に対して、無理な要求をするのは、いわゆる「人を見て法を説け」であって、この人ならば、これで治ると思うからであって、こんな事を普通の人にいったら、それこそ全く馬鹿にされてしまうのでありましょう。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 
p.144


 症状の有無にかかわらず健康人らしく行動するよう導いていくのが森田療法の特徴である。恐怖突入
(212)で突破できれば大きな進展となる。機が熟したタイミングを見計らって背中を押すわけであるが、本人が頑として動かなければ効果が出ないのは言うまでもない。素直な人ほど治りが早い。

2018年1月15日 (月)

神経質礼賛 1466.ファイル誤消去

 現在自宅で使っているノートパソコンは買ってから6年になる。マウスと同じ働きをする部分の具合がだんだん悪くなってきた。ボタンを押しても利かなかったり、逆に押し続け状態になったり。その結果、一つのファイルを移動とか削除したいのに複数のファイルが選択されてしまうことがある。インターネットのブラウザも勝手にボタンが押されて次のページに進んでしまって危険である。文書を打っていると、突然カーソルがとんでもない所に移動して打ち直す手間がかかる。スイッチの接触が不安定になっているのと、ポインティングデバイスが過敏になっていて、ごくわずかな振動に反応してしまうのが原因のようだ。昔の機種はコントロールパネルからポインティングデバイスの感度調整ができたが、現在の機種ではできず、仕方なく、ガマンして使っている。外付マウスを使えばいいじゃないか、と言われそうだが、外付マウスは場所を取るしUSBポートを1個占有してしまうから使っていないのである。

 この問題のために、2カ月前、マイドキュメント内の多くのファイルを誤消去してしまった。その中にoutlookファイルが含まれていたから、プロバイダメールが使用不能になってしまった。あれこれ設定し直して、先週ようやくメール送受信できるようになったけれども、消去してしまったメールはどうにもならない。普段、「ごみ箱」の中を空にする時には内容をチェックしているから、もし必要なファイルまでごみ箱に入れていたら元に戻すことができたのだが、たまたま急いでいてチェックを忘れた時に消去してしまったのである。神経質が足りないとひどいことになる。忙しくてもごみ箱を空にする時には必ず確認するのが鉄則である。

2018年1月12日 (金)

神経質礼賛 1465.一枚の年賀状

 4年ぶりにAさんから病院に年賀状が届いた。消印は1月9日付。52円で送れる限度の7日を過ぎているため十円切手が貼ってある。かつて、双子で生まれたお子さんたちを抱いた写真の年賀状をもらったが、それから二十年。大学生になり大人びた二人が写っていて、近況が細かい字でびっしりと書き込まれていた。強迫の確認行為のため、何をするにも時間がかかる人であるから、年賀状が届くのはいつも1月中旬だったなあと思い出す。お元気そうだし、お子さん方も立派に成長している様子で安心した。こちらも十円切手を貼った年賀状を送る。

 Aさんは私が研修医の頃、浜松医大に入院した人である。森田療法を受けていたが、感情のコントロールが困難な人で、大爆発を起こして治療半ばで退院して行った。その後、主治医が転勤になり、私が引き継いだ。Aさんの行く先々では様々なトラブルが起き、外来に来るAさんの感情の嵐をただ受け流すほかなかった。私が大学の助手を辞めて現在の病院に転勤になってからは他のいくつかの病院に通院していたがどこも中断し、遠路はるばる御主人と子供さんたちを連れて私の外来に来ることが何度かあった。訴えの主題は日常生活でいかに自分が苦労しているか、夫がいかにズボラで非協力的かという2点であり、そのうち夫を非難して夫婦喧嘩を始めるのだった。一旦診察が終わっても、何度も診察室に入ってきては確認を求めていた。やがて、受診することはなくなった。

強迫は今もあるけれども、子育てをしていく中でだんだんと感情のコントロールができるようになっていったのだろうと推測する。ある意味、子供に育てられて親も成長する。そして、医者も患者さんに育てられて成長するのである。

2018年1月 8日 (月)

神経質礼賛 1464.ゲーム障害

 WHO(世界保健機関)がICD(国際疾病分類)の第11版にゲーム障害(Gaming disorder)を追加する予定であると報じられている。ゲームをしたい衝動が抑えられず、日常生活など他のことよりも優先してしまい日常生活などに問題が起きてもゲームし続ける状態が1年以上続くことと定義している。それに対してゲーム関連業界は健康に対する悪影響はないと反発しているそうである。

 ゲームはパチンコや競馬・競輪・競艇といったギャンブルとは異なり、お金が入るわけではなく、ゲームの局面をクリアできたとか勝負に勝ったとかいった満足感が得られるだけである。しかし、ゲームによっては有料の設定があって、未成年者が多額のお金を使ってしまうことが問題となっている。また、スマートホンを用いていつでもどこでも手軽に遊べるだけに、歩きながら、自転車に乗りながら、といった危険な遊び方も目につく。自動車運転中もポケモンGOに夢中になって死亡事故を起こしたケースもすでに何例か出ている。そういう意味では、ギャンブル以上に有害となりうるという見方もできるだろう。

 スマートホンが世代を超えて私たちの生活の中にすっかり浸透してしまった今日、ゲーム依存・スマホ依存状態から脱却することは容易ではないだろう。他の嗜癖と同様、薬で解決するものではなく、本人がこれではいけない、何とかしなくては、という強い意識を持って、生活を変えて行く必要がある。薬物依存やアルコール依存のように自助グループが有効かもしれないし、集団生活の中で目的本位・行動本位の生活態度を身につける入院森田療法も有効かもしれない。

2018年1月 3日 (水)

神経質礼賛 1463.日新又日新(3)

 元日の分厚い新聞には大企業の全面広告がいくつも載っている。最後のページには創業100周年を迎えるパナソニックの広告があった。パナソニックの前身・松下電器産業の創業者にして「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助(121話・1378)の詩が書かれている。四書『大学』の中にある日新又日新(141話・1290)という言葉を踏まえた「日に新た」と題する詩だ。後半の一部を紹介しよう。


 
 万物は日に新た。

 人の営みもまた、天地とともに

 日に新たでなければいけない。

 憂き事の感慨はしばしにとどめ、

 去りし日の喜びは、

 これをさらに大きな喜びに変えよう。

 立ちどまってはならない。

 きょうの営みの上に明日の工夫を、

 明日の工夫の上に、あさっての新たな思いを。

 そんな新鮮な心を持ちつづけたい。

 そんな思いで、この日この朝を迎えたい。


 
 あくなき「生の欲望」に沿って前へ前へと進もうという姿勢が示された詩である。松下幸之助の生き方がよく表れている。


  しかしながら、若いうちは明日があるさ、とがんばりやすいけれども、歳を重ねるにつれ、「憂き事」は増えるし、それを跳ね返すパワーも衰えていく。諸行無常であって、老・病・死は如何ともしがたい。それでも森田正馬先生は生の欲望に沿って行動することを身をもって示された。体調不良を抱えながらも講演旅行に行かれたのである。西に行かれる時はたいてい京都の三聖病院に立ち寄られ患者さんたちの前で話をされていた。


  僕は死ぬるのはいやである。しかし今は大きなことをいっているが、明日でも死ぬかも知れない状態にある。それで古閑君が注射器を持ってついて来ているのである。しかし僕は死ぬまで神経質の研究を続けたい。それがありのままの僕の生命である。

 仏教では、涅槃という事をいうが、涅槃とは、死ぬることである。死ぬるとは生き尽くすということである。あの人は三年たって死んだといえば、三年生きたということになる。よく生きるということは、よく死ぬるということである。いま僕は九州へ立つ前のあわただしい四十分の時間に、諸君に話をしている。あわただしいということも事実であれば、諸君に話をしたいということも事実である。すなわち、こうして話している事が、ありのままの僕の生命である。筑波山で一足一足と下へ向かわずに、上向きに歩いたのと同じ事で、私の生命の目途(もくと)が、私をそちらに向かわせるのであります。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.160


  たとえ老いても重病を抱えてもできることはある。森田先生にあやかって一歩でも上向きに歩を進めよう。

2018年1月 2日 (火)

神経質礼賛 1462.AI(人工知能)面接

 一昨日、大晦日の毎日新聞第一面の「縮む日本の先に AIと生きる」というテーマの記事を読んで愕然とした。就職面接にAIが使われ始めたという話題だった。学生は自宅で面接が受けられるので、何社も走り回って疲弊することもないし、面接者の好き嫌いが入らず公平でいいという意見もあるようだ。企業側は面接要員や会場の確保が不要になって採用コスト削減できるし、統計データを元に離職する可能性の高い人物を排除して離職率を低減させることが可能になる。さらに社会面には、ある病院での定期的な職員に対するAI面接の様子が書かれていた。

 記事を読んで、ここまで来ているのかと驚いた。AIはものすごい勢いで進歩し、普及しつつある。AIが将棋や囲碁のトップ棋士に勝ったというのはつい最近の話だ。おそらく5年後、10年後には私たちの日常生活のあちこちにAIが入り込んでいるのは間違いない。

医療の世界も例外ではない。画像診断、検査データの判断は今すぐAIに置き換わってもおかしくない。最初は診察補助のような形でAIが入ってきて、最後はAIによる診断・治療というようになっていくだろう。精神科でもすでに行政の強い「指導」によりICD(WHOによる診断基準)による操作的診断法が主流になっているから、AI面接で診断し、ガイドラインに従った薬を処方するようになる。難治例は遺伝子診断からその人に適合した薬剤選択をする。認知行動療法もAI化しやすいだろう。

最後までAI化できずに残るのは森田療法の根本部分(生き方を含んだ教育的な面)だろうか。神経質を活かしている指導者の薫陶を受けて精神的に成長し、生き尽くす・・・生を全うできるようにするのが、森田療法の隠された最終目標だと私は考えている。こればかりは生身の人間でなければできない。もっとも、現代の森田療法ではこの部分はすっかり形骸化してしまった。形外(こころ)を忘れては、認知行動療法と一緒くたにされてAIに埋没してしまうのは時間の問題である。

2018年1月 1日 (月)

神経質礼賛 1461.雑念はあってよい

 今年も例年通り、洋風のおせち(741話)とそれとは別の店で調達した和風おせちを妻の実家に持って行き、皆で食べる。正月用の祝箸だとちょっと食べにくいのが煮豆である。割箸のように断面が四角形の箸だと掴みやすいが、祝箸のような丸箸だと、掴んだつもりがスルリと逃げてしまうことがある。


 前話の井上常七氏は雑念恐怖に悩んで森田先生の門を叩いた。先生は煮豆を例に説明されたという。


  私が初めて診察を受けたとき「雑念があって、勉強ができない」といったところが、先生から「君は煮豆を箸ではさむ時に、左の手の茶碗をひっくり返すか」といわれた事があります。その後、心は同時に、一方のみでなく多方面に働いているという事がわかり、一方には、雑念が沢山にわきながら、かえって読書でも、仕事でも、はかどるものであるという事を知ったのであります。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 
p.309


 私も雑念は気になるたちである。しかし、雑念を振り払って集中しようとすればするほど、ますます雑念が増大して集中できないという悪循環に陥る。そもそも、雑念を完全になくそうということ自体、不可能なのである。雑念が浮かんでも、それはそのままに放っておいて、目の前の仕事をしていれば、雑念はいつしか薄れて消えていく。もちろん、また新たな雑念が浮かんでくるけれども、それもまたいつしか自然に消えていく。空の雲のようなものである。放っておけば雑念はあってもないも同然となる。これが雑念即無想
(230)である。座禅修行を積んで雑念がわかないようにしようという人もいるかも知れないが、森田式では難しい修行は不要。雑念は浮かぶままに放置して、手足を動かして目の前の仕事をしていくだけなのでよいのだ。

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