神経質礼賛 1461.雑念はあってよい
今年も例年通り、洋風のおせち(741話)とそれとは別の店で調達した和風おせちを妻の実家に持って行き、皆で食べる。正月用の祝箸だとちょっと食べにくいのが煮豆である。割箸のように断面が四角形の箸だと掴みやすいが、祝箸のような丸箸だと、掴んだつもりがスルリと逃げてしまうことがある。
前話の井上常七氏は雑念恐怖に悩んで森田先生の門を叩いた。先生は煮豆を例に説明されたという。
私が初めて診察を受けたとき「雑念があって、勉強ができない」といったところが、先生から「君は煮豆を箸ではさむ時に、左の手の茶碗をひっくり返すか」といわれた事があります。その後、心は同時に、一方のみでなく多方面に働いているという事がわかり、一方には、雑念が沢山にわきながら、かえって読書でも、仕事でも、はかどるものであるという事を知ったのであります。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.309)
私も雑念は気になるたちである。しかし、雑念を振り払って集中しようとすればするほど、ますます雑念が増大して集中できないという悪循環に陥る。そもそも、雑念を完全になくそうということ自体、不可能なのである。雑念が浮かんでも、それはそのままに放っておいて、目の前の仕事をしていれば、雑念はいつしか薄れて消えていく。もちろん、また新たな雑念が浮かんでくるけれども、それもまたいつしか自然に消えていく。空の雲のようなものである。放っておけば雑念はあってもないも同然となる。これが雑念即無想(230話)である。座禅修行を積んで雑念がわかないようにしようという人もいるかも知れないが、森田式では難しい修行は不要。雑念は浮かぶままに放置して、手足を動かして目の前の仕事をしていくだけなのでよいのだ。
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先生、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
>放っておけば雑念はあってもないも同然となる。これが雑念即無想(230話)である。
昨年、職場とライフワークの場での人間関係において、非常に心外で理不尽な思いにさせられることが、立て続いておきました。このことがトリガになったのかもしれませんが、典型的な男の更年期のうつ症状が出てしまい、悶々としていた時期がありました。今までの生き方がすべて間違っていたような気分にさいなまれ、自己否定的雑念が次々と襲ってきてかなり落ち込みました。「放っておけば雑念はあってもないも同然となる」境地にはなかなか至らず、仕方がないので昔、行ったことがあった「マントラ」を唱えてみることにしました。不思議なことに、数日間の実践でかなり改善いたしました。「雑念退散」にはマントラがそれなりの効力を発揮するようです。
今年も、「神経質礼賛」毎回楽しみに読ませていただきます。
ますますのご健筆とご健康をお祈りいたします。
投稿: keizo | 2018年1月 2日 (火) 16時48分
keizo様
新年おめでとうございます。
いつもお読みいただきありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
「日々の賀状」は毎日拝見しています。磯火に迎えられた初日の出はすばらしい光景だったことと思います。
ちょうど私たちの年代は老年期へ上がる階段の踊り場みたいなところですね。あちこち身体の不具合が出てきやすいですし、若い時のようには気力がわかないです。学校時代に同期だった人の訃報も時々入ってきます。定年退職して第2の人生を模索している人も多いです。私にも自己否定的な雑念は浮かびます。神経質人間は自罰的になりやすいです。しかし、仕事をしないわけにはいきません。ジタバタしているうちに雑念は薄れています。このブログを書くことも自分にとってプラスに働いているらしく、ありがたいことです。
投稿: 四分休符 | 2018年1月 2日 (火) 18時01分