神経質礼賛 1463.日新又日新(3)
元日の分厚い新聞には大企業の全面広告がいくつも載っている。最後のページには創業100周年を迎えるパナソニックの広告があった。パナソニックの前身・松下電器産業の創業者にして「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助(121話・1378話)の詩が書かれている。四書『大学』の中にある日新又日新(141話・1290話)という言葉を踏まえた「日に新た」と題する詩だ。後半の一部を紹介しよう。
万物は日に新た。
人の営みもまた、天地とともに
日に新たでなければいけない。
憂き事の感慨はしばしにとどめ、
去りし日の喜びは、
これをさらに大きな喜びに変えよう。
立ちどまってはならない。
きょうの営みの上に明日の工夫を、
明日の工夫の上に、あさっての新たな思いを。
そんな新鮮な心を持ちつづけたい。
そんな思いで、この日この朝を迎えたい。
あくなき「生の欲望」に沿って前へ前へと進もうという姿勢が示された詩である。松下幸之助の生き方がよく表れている。
しかしながら、若いうちは明日があるさ、とがんばりやすいけれども、歳を重ねるにつれ、「憂き事」は増えるし、それを跳ね返すパワーも衰えていく。諸行無常であって、老・病・死は如何ともしがたい。それでも森田正馬先生は生の欲望に沿って行動することを身をもって示された。体調不良を抱えながらも講演旅行に行かれたのである。西に行かれる時はたいてい京都の三聖病院に立ち寄られ患者さんたちの前で話をされていた。
僕は死ぬるのはいやである。しかし今は大きなことをいっているが、明日でも死ぬかも知れない状態にある。それで古閑君が注射器を持ってついて来ているのである。しかし僕は死ぬまで神経質の研究を続けたい。それがありのままの僕の生命である。
仏教では、涅槃という事をいうが、涅槃とは、死ぬることである。死ぬるとは生き尽くすということである。あの人は三年たって死んだといえば、三年生きたということになる。よく生きるということは、よく死ぬるということである。いま僕は九州へ立つ前のあわただしい四十分の時間に、諸君に話をしている。あわただしいということも事実であれば、諸君に話をしたいということも事実である。すなわち、こうして話している事が、ありのままの僕の生命である。筑波山で一足一足と下へ向かわずに、上向きに歩いたのと同じ事で、私の生命の目途(もくと)が、私をそちらに向かわせるのであります。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.160)
たとえ老いても重病を抱えてもできることはある。森田先生にあやかって一歩でも上向きに歩を進めよう。
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