神経質礼賛 1510.須(すべから)く往生せよ
昨年10月に京都森田療法研究所の岡本重慶先生から宇佐玄雄先生の講話などを収めた貴重なCDを送っていただいた。宇佐玄雄先生は禅僧にして森田正馬先生の弟子であり、京都の三聖病院院長だった。講話の中から抜粋で研究所ブログに紹介された部分は聴いていたが、この講話全体はとても長い。講話1が1時間54分、講話2が2時間25分にわたる。MP3形式で編集してあるので、パソコンに入れて少しずつ聴いて行こうと思っているうちに半年経ってしまった。これではいけない。MP3プレーヤーに移して、通勤の電車の中で聴いていくことにした。
講話1の最初の部分は「あるがまま」について語られている。気分がよくないから、やりたくないから、「あるがまま」にやらないというのは誤りであって危険である。やりたくない気分はそのままに行動しなさい、ということである。森田先生は「須らく往生すべし」と言われた。ここでの往生とはそのまま行け、Go on!(英)、Gehen!(独)のことである。さらに般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあてい)」も同じである、と森田療法的解釈をしておられるのがとても面白い。
森田正馬先生は三聖病院で次のように講話されている。
最近驚いた実例は、静岡県の人で、三十余歳の人である。胃アトニーが、主症候で、そのほか十五年以来の反芻癖があり、これが自分で非常に厭わしい。胃アトニーは、一週間ほどで治ったが、その後、日記で、反芻癖はどうすれば治るかと、質問したから「どうもしかたがない」と赤字で答えて置いた。それから、いつ治ったかは、本人も気付かなかったが、三週間後には、いつの間にか、全く治っていた。これは療法上の術語で、不問療法という。知らぬふりして、放ったらかして置くことである。医者としては、不親切で、無責任に思われるから、実際には、素人が考えたよりも、なかなか難しいものである。「しかたがない」ということは、僕の『根治法』の内に、「須(すべから)く往生せよ」といってある事に相当するものである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.334)
また、刑外会でも次のように話しておられる。
神経質の症状の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、十年でも二十年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、しかたがないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、治ると治らぬとの境である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.389)
苦痛をなくしたい、症状を取り去りたい、とは誰もが願うことながら、そうしようとすればするほど悪循環にはまって、苦痛を深め症状を固着させてしまう。踏みとどまって苦しいままに行動していくうちに、いつしかそれらは薄れている。そして神経質が生かせているのだ。
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