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2018年6月11日 (月)

神経質礼賛 1515.強過ぎたアニキ

 悲劇的な信康切腹事件については当ブログ1064話や拙著に書いている。家康の嫡男で岡崎城主だった信康には織田信長の娘・徳姫との間に二人の女の子がいたが男の子ができないため、何としても信康の跡継ぎが欲しい母親の築山殿が信康に次々と側室をあてがった。これが夫婦関係・嫁姑関係を決定的に悪化させた。その側室は元武田の家臣の娘たちだった。徳姫は信康と築山殿の悪行や武田に密通していることを書いた手紙を信長に送る。信長は家康の家老である酒井忠次を呼びつけ、徳姫が書いた十二か条について問い質したが、忠次は信康を庇わなかったため、信長は信康の処分を家康に要求した。家康は迷った末に信康に切腹を命じ、築山殿は家康の家臣によって斬殺された、というのが事件の概要である。信康はまだ20歳だった。


 簡単には人を殺さない家康が、よりによってどうして自分の嫡男に切腹を命じたのかは大きな謎であり、諸説がある。なぜ、出家させるとか廃嫡の謹慎処分ではなかったのか。そもそも信長が家康を飛び越えて直接酒井忠次を呼びつけるのは不自然だし、忠次が主君の嫡男を庇わなかったのもおかしい。


 酒井忠次は家康よりも
15歳ほど年長であり、家康が少年時代に今川氏の人質だった時期も最年長の家臣として付き添っていた。酒井家は松平家と先祖を同じくし同格とも言え、忠次の妻は家康の叔母だから家康の義理の叔父にあたる。一人っ子の家康にとっては強いアニキ、父親代わりの存在だった。今川館での立小便・・・正月に今川義元がお出ましになるのを待っていた今川家臣たちの見ている前で竹千代(家康)が堂々と庭に立小便をした件は今川家臣になめられないように忠次がけしかけたのではないかと私は推測している。そして、竹千代少年の手はプルプル震えていたのではないかと勝手に想像する。忠次は戦では滅法強く、いつも徳川軍の勝利に大きく貢献していた。大敗した三方原の戦でも酒井隊は武田勢を破り浜松城の守備のため引き上げている。命からがら浜松城に帰ってきた家康が脱糞しているのを見て笑い飛ばし、家康はこれは味噌だと言い訳したと言われる。織田・徳川連合軍が武田軍を破った長篠の戦の際には連合軍の軍議で忠次は武田の砦に夜襲をかけることを提案する。信長は却下したが後でこっそり忠次を呼び、兵と鉄砲隊を授けて奇襲作戦を実行させ、本戦での勝利に大きく貢献し、忠次は信長から激賞された。主君の家康を飛び越えての動きに家康は内心面白くなかったであろう。現代のプロ野球某球団にアニキと言われる監督も口出しできない選手(現監督)がいたが、家康にとって忠次は強過ぎるアニキだった。


 三河一向一揆の際に家臣が真っ二つに割れ、家臣から銃撃された経験を持つ家康は、家臣の扱いに非常に気を配った。何しろ祖父も父親も家臣に殺されている。そして、特に忠次は別格だった。信長が忠次を高く評価し、家康を飛び越えて指示を出していたことを考えると、直接に忠次を呼び出したことも理解できる。いくら何でも呼び出された理由がわかっていれば、家康とも事前に相談して信康を庇う発言ができたろう。その場で、突然、徳姫が告げ口した内容の真偽について信長から追及されて、内心では信康付の岡崎派の家臣団を良く思っていないこともあって、庇う発言が咄嗟に出なかったのかもしれない。


 信康の処置を信長から命じられたと忠次から告げられた家康は狼狽し、最悪のケースをあれこれ考えただろう。忠次が庇わなかったのは信康の切腹を望んでいるからではないか。下手をしたらまた家臣が真っ二つに割れるおそれがある。それに武田との密通を疑われたとなると、出家や廃嫡程度の処分では後々蒸し返される可能性がある。織田・徳川同盟の証として徳姫を信長殿から送られたのに、このような始末になっては申し訳が立たない。やはり切腹させるしかないのだろうか。神経質な家康は、忠次に忖度し信長に忖度した。家臣の大多数が信康切腹に反対して忠次も同意してくれればいいのだが、そんな淡い希望を抱いて
1か月以上が過ぎ、結局、断腸の思いで切腹を命じたのではないだろうか。


 ある意味、家康が神経質だったために起きた悲劇ではある。しかし、徳川家にとって結果的にはそれが最善の選択だった。信康切腹は信長やその家臣たちからしてみればサプライズの処置だった。徳川殿は度を超した律義者であり、決して盟約を裏切らない男である、という強烈な印象を焼き付けた。後日、秀吉が家康を警戒しながらも潰すことはなくナンバー2として遇し、秀頼の将来を家康に託して亡くなっていったのも、信康の犠牲のおかげだろう。その結果、家康は天下人となることができたのである。そして平和な社会を構築することができたのである。

 強過ぎたアニキはどうなっただろうか。その後も戦で活躍したが、目の病気もあって嫡男・家次に家督を譲り隠居する。息子の禄が少ないと家康に訴えると、「お前も息子がかわいいか」と強烈な嫌味を言われた。晩年は豊臣秀吉から与えられた京の屋敷と千石の禄で寂しく過ごしたようである。徳川四天王筆頭、第一の功臣にふさわしからぬ最期だった。

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