神経質礼賛 1530.とらわれる
我々、神経質人間は何か事を起こそうというと、あれこれ考えて細かく計画を立てずにはいられない。それは神経質の美点である反面、やりすぎると自縄自縛になってしまうきらいがある。計画通りに事が運ばないと不満であり、「結果オーライ」にはなかなか満足できない。そして、日常生活の中でも自分で決めたルールにとらわれて、それを押し通そうとしがちである。森田先生は次のように言っておられる。
「物にとらわれる」という言葉がある。ある考え・ある文句を標準として、モットーとして、自分の行為をそれにあてはめていく事である。久し振りに、休日であるから、「休む」という文句にとらわれる。散歩は「休む」事の範囲に属するけれども、ちょっと庭を掃除する事は、「仕事」の種類であるから、すべきものでないと心得るという風である。実は散歩でも同じ事であるけれども、それに気がつかないのである。
ここの療法でも、この「とらわれ」がなくなれば、全治するのである。とらわれを離れれば非常に便利で、生活が自由自在になります。ここの入院患者も、とらわれのある間は、仕事が治療のため、修養のため、仕事のための仕事であって、少しも実際に適切しない。盆栽に水をやれば、やたらにやって、腐ってしまっても気がつかず、水をやる事をやめれば、乾いて枯れても、少しも知らないという風である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.239-240)
理屈はさておき、周囲の状況をよく見て、その時々に必要なことで体を動かしていけば、自然に「とらわれ」から解放されている。
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