神経質礼賛 1550.そねみ
今から30年ほど前、研修医の時に森田正馬全集を読んでいて一番心に響いたのは、赤面恐怖・対人恐怖に悩む神経質者の心理について森田先生が「恥かしがるのを以て、自らをフガヒなしとし、恥かしがらじとする負けじ魂の意地張り根性」(白揚社:森田正馬全集第3巻(赤面恐怖の治療法)p.114)とズバリ看破された言葉である。まさに自分の内面を指摘されていると感じた。これは赤面恐怖・対人恐怖の人に限らず神経質の人全般にみられることだと思う。自分はダメ人間で情けない、と思いながらその実、よりよく生きたいという「生の欲望」が強いのである。その生の欲望に沿って、「己の性を尽くし 人の性を尽くし 物の性を尽くす」(350話)を目標に行動していけば神経質性格が最大限に生かせるのである。しかしながら、意地張り根性が変な方向に向かってしまうと「そねみ」になってしまうことがあるので注意しなくてはならない。「そねみ」について形外会の場で水谷啓二さんと森田先生の発言があるので紹介しておこう。
水谷氏 対人恐怖の者は、そねむ事が非常に多いと思います。この間私の会社に、若手の課長がいまして、こちらから挨拶をしてもろくに挨拶をしてくれなかったから、こちらも不快に思って、話もしなかったのであります。しかるに私の同僚には、交際上手な奴がいて、朝も早くから、その課長と親しく話をしているのです。そんな事で、実は私もその同僚をそねみ始めたのです。
会社がひけて、私はその同僚と一緒に帰る途中、ふと、あのイソップ物語で「葡萄と狐の話」を思い出しました。それは葡萄を取ろうとした狐が、その葡萄を取ることができないので、負け惜しみにケチをつけて、あの葡萄は、まずくて食われるものではないといった話です。
この話を考えて、私もその狐と同様だという事がわかりました。そねむという事の一つのよい例ではないかと思います。
森田先生 今のような話は、非常によい話です。こんな事がよくわかれば、神経質は治り、精神修養が進み、「修道」とかいう事にもなります。
(中略:自分のひがむ心に気がつかないで人を恨むのは、地球の回転を知らないで太陽が動くと考えるのと同様である、という説明あり)
普通の人も、修養の心掛けのない者は、この自分の心の回転の状態が気がつかないのであるが、とくに、神経質は、自己中心的であるから、ひがみ・ひねくれの心が非常に強い。まず第一に、その心を打ち壊す手段が、すなわち治療法の眼目であります。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.618-619)
「葡萄と狐の話」は短い話で印象に残りにくいが、水谷さんの話を聞けばなるほどと思う。
【狐と葡萄】腹をすかせた狐君、支柱から垂れ下がる葡萄の房を見て、取ってやろうと思ったが、うまく届かない。立ち去りぎわに、独り言、「まだ熟れてない」このように人間の場合でも、力不足で出来ないのに、時のせいにする人がいるものだ。(岩波文庫:イソップ寓話集p.33)
森田先生が、患者さんに対して、「人が便利なように(人の役に立つように)」行動していくよう指導していたのは、自己中心性を打破して社会適応を良くしていく上で重要なことである。そして、そうなれば、神経症も自然と治っているのである。
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