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2018年12月31日 (月)

神経質礼賛 1580.いつも愉快でいるには

 私たち神経質人間は概して、陽気に、はしゃぐことが苦手である。その分、ハメを外して失敗するとか、軽はずみな失言で人に不快な思いをさせるようなことは少ない、という長所にもなる。まあ、面白味が少ない人間だけれども、なるべく笑顔で挨拶することは長年心掛けているところだ。いつも気楽で楽しそうな人を見ていると、うらやましく思うこともあるが、森田正馬先生は次のように言っておられる。

 

 さて、憂と楽と、雨と晴とは、自然の現象であるから、人為的にこれはなんとも致し方はない。しかるに強いてこれを、いつも気楽に、いつも天気にしようとするには、外界を無視して、主観的に工夫するよりほかにしかたがない。これに二通りの道がある。

 その一は、眼を閉じて、一切の欲望を捨てる事、もしくは一年中、深く室内に閉じこもって、決して外に出ない事である。そうすれば、雨も風もどうでもよい。種々の宗教の苦行とか、六根清浄とかいうのは、この法であり、毎日、一心不乱に、南無阿弥陀仏の百万遍を唱えていてもよい。しかしこれも結局は、なかなか苦しく容易ならぬ事である。人生を忘却した邪道といわなければならぬ。

 他の方法は、これと反対に、人生の欲望をますます発揮する事である。この欲望に乗り切ってしまえば、雨も風もものかは、裸でも飛び出すのである。憂鬱も楽天もともに超越して、ともかくも毎日の心持を引き立たせるものである。

 ただしこの両方法は、いずれも両極端であり、不自然で無理であるから、人生の真の道という事はできない。

 要するに、人生は、苦は苦であり楽は楽である。「柳は緑、花は紅」である。その「あるがまま」にあり、「自然に服従し、境遇に柔順である」のが真の道である。毎日の心持を引き立たせる最も安楽な道である。憂鬱や絶望を面白くし、雨を晴天にし、柳を紅にしようとするのが、不可能の努力であって、世の中に、これ以上の苦痛な事はない。人生は腹がへれば食べたく、腹がはれば食べたくない。いつも食べたく、美味でありたいというのが、思想の迷妄であり、哲学・宗教の邪道であるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.188


 一見、気楽そうに見える人でも「唯見れば何の苦もなき水鳥の足にひまなきものと知らずや」なのであって、実はいろいろと苦労し心配事も抱えながら努力して生きているのかもしれない。誰にとっても苦は苦であり楽は楽である。結局、あるがままに、神経質の特性を生かして行動していくのがベストなのである。


 本年もお読みいただきありがとうございます。当ブログは
14年目に突入します。

2018年12月28日 (金)

神経質礼賛 1579.認知症になったら

 先日、新聞の記事に認知症研究の第一人者・長谷川和夫先生自身が認知症になったことを講演で話されたことが紹介されていた。長谷川先生は現在89歳。聖マリアンナ医大の学長をされ、日本中で広く使われている認知症の簡易検査・長谷川式スケールを開発したことで有名である。文芸春秋20184月号に長谷川先生のお話が掲載され、文春オンラインで読むことができる。長谷川先生の場合、嗜銀顆粒性認知症というタイプのもので、80代以降に発症することが多く、緩徐に進行する。認知症になって「確かさ」がはっきりしなくなった、と痛切に感じておられるという。自宅を出た時に鍵を閉めたかどうかはっきりしないので、何度も確認しに戻ってしまう。行動だけをみると、まるで強迫性障害の確認行為である。

 長谷川先生は「認知症は、長生きすれば誰にでも起こり得ることです。だから、ありのままを受け入れるしか、仕方がありません。まずは自分にできる範囲のことをやる。その上で、少しでも人の役に立つようなことができたら、それ以上嬉しいことはない。そんなふうに考えながら、日々を送っています」と語っておられる。

 実は長谷川先生は森田療法にも精通し、『森田療法入門』(ごま書房)という優れた入門書を書かれている。マンガも入っていてとてもわかりやすいので私は自分の患者さんによくお薦めしていた。そんなわけだから、「己の性(しょう)を尽くし、人の性を尽くす」(350)という森田的生き方を体現しておられるのだと思う。この考え方は認知症だけでなくいろいろな状況に応用できる。例えば末期ガンに対しても同様であり、少しでも人の役に立つこと、例えば人を笑わせ愉しんでもらうでもよいからそれをやっていく、というのが森田療法をがん治療に応用した「生きがい療法」である。それを思えば、人前が恥ずかしくてドキドキするとか、息苦しくてパニックになるとか、確認を繰り返すとか不潔が気になって長時間手を洗う、など神経症の症状を理由に行動しないのは実にもったいない。周りを見渡せばやるべきことはいくらでも見つかる。見た所に仕事あり(1008)、そして、仕事が人を治す(154話・1275)のである。

2018年12月24日 (月)

神経質礼賛 1578.ムンクの「叫び」

 一昨日は東京都美術館で開催されているムンク展を見に行ってきた。あの有名な「叫び」が展示されているということで、会場は混雑していた。午前10時半に着いて、チケットを買うのに10分ほど並び、入場待ちが10分ほどだった。12月は高校生無料ということだが、高校生らしき若者の姿はあまり見かけず、折角の粋な計らいなのにもったいない。


 展示は自画像から始まり、次が家族画である。父親は軍医であり、強迫神経症があったとされる。母親は写真で見るとポッチャリした感じの女性であるが、ムンクがまだ幼い時に結核のために亡くなっている。その後、姉も結核で亡くなり、死にゆく母や姉の姿を描いた作品が並ぶ。死の恐怖が彼に強烈に焼き付いていたものと思われる。母の死後、父親は狂信的というほどキリスト教にのめり込んでいく。夏の夜と題する展示コーナーには孤独と憂鬱をテーマにした作品が並ぶ。その後に「叫び」の展示がある。一番人気のため、係員が行列整理していて、一列に歩きながら鑑賞していくような形だった。TV番組や美術書で見ればじっくり鑑賞できるけれども、やはり本物を前に受ける印象は強烈なものである。次のコーナーでは接吻、吸血鬼、マドンナ、さらに男と女の関係をテーマとした作品が続く。肖像画のコーナーには哲学者ニーチェの肖像があり、この構図や赤い空は「叫び」を連想させる。さらには風景画が並ぶ。最後のコーナーには晩年の作品が並び、出口にあるのは
77歳の時の最後の自画像で「時計とベッドの間」という題が付けられている。柱時計には針が描かれておらず、自分にとって未来がないこと、そしてベッドは死が近いことを意味していると解釈されている。しかし、私には、できることをすべてやり尽くし、生き尽くしたムンクから後世の人々への最後の挨拶のようにも思える。


 「叫び」はよく誤解されている。中央の人物が叫んでいるのではなく、「自然を貫く果てしない叫び」つまり幻聴による強い恐怖と不安におののき耳を塞いでいるのである。ムンクは44、5歳の時に精神病院に入院している。NHKの日曜美術館の放送や、会場の解説では神経症やアルコール依存症によるような印象だけれども、幻覚や妄想症状はそれでは説明が付かず、統合失調症圏の病気だったと考えるのが妥当であろう。

 美術館を出ると雨が降り始めていた。いつも、上野の美術館や博物館に行く時には、上野駅の公園口を出て、帰る時も同じ公園口から帰っていた。今回は上野公園内を散策してみる。今年は例年以上に暖かいためか、まだ見頃の紅葉の木が残っている。動物園の横には上野東照宮がある。明治維新の際の彰義隊と薩長軍との戦いにより、現在の上野公園全体にあった寛永寺の伽藍のほとんどが消失した中で奇跡的に戦火を免れたパワースポットでもある。諸大名が寄進した巨大な灯篭、金箔張りの本殿、左甚五郎の彫刻が印象的だ。さらに上野大仏のお顔を拝む。そして今年の大河ドラマで注目を浴びた西郷隆盛像に見送られて公園を後にした。

2018年12月21日 (金)

神経質礼賛 1577.純正インクか互換インクか

 もう今年もあと10日。そろそろ年賀状を書かなくてはと思っている方も多いことと思う。中にはもう全部書いてしまった、という優秀な方もおられるかもしれない。今では受け取る年賀状の大部分が本文と絵はもちろん表の宛名書までプリンターで印字されたものになっている。手書きしなくても、ハガキをセットすればパソコンとプリンターが全部やってくれるというわけだ。私は名前と住所だけは手書きしている。年賀状シーズンはプリンターが大活躍する。もう少しというところでインク切れになって慌てた経験はどなたもおありかと思う。


 インクカートリッジにはプリンターのメーカーが製造している純正インク、回収したカートリッジを利用した再生インク、種々のメーカーが製造している互換インクがある。その価格差は非常に大きい。家電量販店で売られている再生インクや互換インクの価格は純正インクの半値以下である。近頃は百円ショップに
1200円の再生インクカートリッジが置かれていたりもする。メーカーはプリンター本体の価格を安くして純正インクで儲けようというスタンスだから、交換用の純正インクを4色とか6色セットで買うと、プリンター本体の価格に近くなってしまう。しかし、再生カートリッジや互換カートリッジを使うと、プリンターが認識してくれなくて全く使えなかったという話も聞く。それにインクの質が気になる。ノズルが詰まりやすいとか、インクの色が純正品より劣るということもありうる。私が使っているプリンターは水で濡れてもにじみにくい顔料インクを使っているが、安価な互換インクには染料インクのものもある。だから、安いからと言って飛びつくと「安物買いの銭失い」になる心配がある。


 プリンターを新しく買って
1年間の保証期間内は純正インク以外の使用は保証外になってしまうので純正インクを買うとして、その後どうするかは使用頻度次第ではないだろうか。私のように、使用頻度が少なく、カートリッジが1年以上もつ場合には安全性を考えて信頼度の高い純正インク、大量に印刷する場合は何種類か再生インクや互換インクを試してみて質的に満足できて安価なものを選ぶのが得策のように思う。

2018年12月17日 (月)

神経質礼賛 1576.ヤマト運輸の偽メール

 妻から、「こんなメールが来たんだけど、どうしたらいい?」とスマホ画面を見せられた。クロネコヤマトからの「お客様宛にお荷物のお届けにあがりましたが不在の為持ち帰りました。下記よりご確認下さい」という文面の下にリンク先が表示されている。怪しい文面ではないが、妻には全く荷物の心当たりはないし、普通ならば不在票がポストに入れられるはずである。何しろ、私以上にITオンチ、某大臣のようにパソコンは触ったことがないし、スマホのメールは滅多にチェックしないで専らかけ放題の音声電話として使っている妻のやることだ。画面に記された期限はもう過ぎていて、どっちみちどうしようもないし、ここ1週間にヤマトの配達は2,3回あって、もし不在配達があったとしても再配達済みのはずである。もしかすると偽メールかもしれないから放置するように言っておいた。


 ネットで調べると、クロネコヤマトからの偽メールは2年前から発生しているらしく、ヤマト運輸側でも注意喚起していることがわかった。もし、リンク先をクリックしてしまうとウイルスの入った不正アプリがインストールされる。個人データの流出やケータイによる不正決済が懸念されるという。同様の佐川急便を騙ったメールも増えているそうだ。これらはSMS(ショートメール)で送られてくるのだが、妻の場合、通常のメールMMSで送られてきている。想像するに、妻の友人のスマホが感染して、そのスマホに入っていた友人たちのメールアドレスに自動的に送信されたのではなかろうか。


 私宛にも有料サイトの料金を支払え、払わないと法的措置を取る、という架空請求のSMSが時々送られてきて不快な思いをしながら無視しているけれども、このクロネコヤマトを装ったメールだと、うっかりリンク先をクリックしてしまう人も少なくないだろう。まったく油断も隙もあったものではない。ネットに関しては神経質な対応が一番である。

2018年12月14日 (金)

神経質礼賛 1575.電子カルテ始まる

 ついに今週の月曜日から1567話に書いた電子カルテが始まった。私は初日が外来担当日。今までのようにカルテに書く代わりにメモを書いておいて診察後にキーボードでカルテ入力するか、それとも患者さんと話しながら入力していくか、悩ましいところだ。思い切って患者さんと話しながら入力してみることにした。長年の診察スタイルと全く変わってしまう大革命だ。私のような中高年にはちょっとキビシイ。私のタイピング速度では手書きの倍近い時間がかかる。それに、ブラインドタッチではないからどうしても手元と画面を見る時間が長くなって、患者さんを見る時間は減ってしまう。大体のところは話しながら入力していき、患者さんが診察を終えて部屋を出てから書き足りなかった部分を書き足したり文面をチェックして訂正したりする、というスタイルに自然と落ち着いた。入力情報がたくさんある新患の人もメモを一切取らずにやってみた。画面のどこをクリックしたらよいか慣れていないので、画面のあちこちを探すのに時間がかかり、目がショボショボになる。そして、私が懸念していた通り、直近の処方内容が移行データとして入っていなかった患者さんが2割ほどあり、それをいちいち打ち込んでいく手間が発生した。それに、ミスがあって処方箋の打ち直しが数人出てしまった。午前外来はいつもより1時間長くかかった。


 午後になって、病棟へ行ってみると、看護師さんたちもノートパソコンとにらめっこしている。今までの看護記録などもすべてキーボード入力に変わった。若い人はすぐに慣れているけれども苦戦している年配者も見かける。


  電子カルテ導入が遅れていた精神科でもこれからはこういう診察スタイルになっていくのは時代の趨勢である。森田先生曰く「境遇に柔順なれ」。とにかく順応していく他はないと改めて思う。そして、電子カルテの長所が生かせるような使い方を工夫していきたい。

2018年12月10日 (月)

神経質礼賛 1574.いもぼう

 今回、京都の円山公園の中にある平野屋本家で食べた昼食は「いもぼう」という料理だった。名前だけは聞いたことがあるけれども、食べるのは初めてだ。これは、江戸時代中期に考案された京料理で、京都の海老芋と北海道の棒鱈(ぼうだら)を一緒に煮たものである。なんでも、棒鱈を煮る時に出た膠(にかわ)質が海老芋を包んで煮崩れを防ぐとともに、海老芋から出るアクが棒鱈を柔らかくする、といううまい組み合わせになっていて、店では「夫婦(めおと)炊き」と呼んでいるのだそうだ。全く異なる素材同士の性質を生かした「出会いもん」である。人間の夫婦でも、森田正馬先生が言われたように、性格が異なる同士の方が相性が良いようだ(270)


 早い時刻に入店したので、まだ他に客はいなかった。年配の店員さんが、「寒くありませんか。暖房を入れましょうか」と気遣ってくれる。椅子席なのでラクである。料理は全体的に茶色系なので地味に見えるがとてもいい味である。いもぼうは海老芋と鱈の味が混然一体となっている感じだ。祇園豆腐と言うと、串刺しにした豆腐に味噌が乗ったものと思いきや、この店のそれは、あんかけ豆腐だった。とろろ芋海苔巻も意外に美味しくて日本酒の燗酒にとても合う。ただし、全体的に腹八分目いや七分目という感じなので、単品の卵焼きを追加注文した。甘さや塩分は控えめでダシの味がよく効いていてこれまた良かった。一度は食べてみる価値のある京料理だと思う。

2018年12月 7日 (金)

神経質礼賛 1573.散紅葉

 昨日は休診日の公休日。京都へと向かう。今年は11月中旬から暖かい日が多く、12月になっても気温が20℃を超える日が続いた。おかげで紅葉が例年より遅く、まだまだ紅葉狩りができるのでは、という期待があった。神経質ゆえ、事前に情報を集め、スケジュールを考える。ただし、あいにくの雨天である。


 京都駅から地下鉄で蹴上へ。疎水脇の線路跡を遊歩道にした「インクライン」を歩く。両側が桜並木となっていて、よくTV番組で紹介される場所だ。隣接した料亭の紅葉が美しい。南禅寺境内に入ると、まだ一部の紅葉は残っていたが、かなり散り落ちてしまっている。しかし散紅葉も赤い絨毯のようで美しい。レンガ造りの水道橋「水路閣」を見てから南禅院の庭園を拝観する。その後は三条通を歩き、円山公園へ。ここは紅葉がしっかり残っていた。坂本龍馬・中岡慎太郎像を見る。円山公園内で昼食。京阪電車に乗り、祇園四条から出町柳に出て、叡山電車に乗換え一乗寺へ。雨はだんだん強くなってきた。詩仙堂や曼殊院は何度も行ったことがあるので、行ったことのない金福寺へ向かう。松尾芭蕉や与謝蕪村ゆかりの寺であり、ここも散紅葉が美しく、特に芭蕉庵へ上がる途中から見下ろした本堂前の庭園が見事だった。さらに宮本武蔵像のある八大神社へ。大降りの雨の中、急坂を登る。もう一か所紅葉の庭で知られる圓光寺を回るつもりだったが、時間の関係でパス。再び電車で出町柳に戻り、下鴨神社へ。参道の糺の森の紅葉はちょうど見頃。途中の河合神社には鴨長明(885)が住んだ「方丈」を再現したものがあって面白かった。本殿を参拝して今出川通りを西に歩き、最後の目的地、相国寺へ。特別拝観の入場は4時までで、入ったのは3時40分頃。方丈を見てから法堂天井の「鳴き龍」を見る。手を叩くと音が鋭くこだまする。開山堂の庭園の紅葉もきれいだった。今出川から地下鉄に乗って京都駅へ。伊勢丹でおみやげを買って帰る。紅葉三昧の一日だった。家に帰って歩数計を見ると2万8千歩余り。いつもながら欲張り過ぎを反省する。

2018年12月 3日 (月)

神経質礼賛 1572.西洋の風と東洋の風

 三島森田病院には森田正馬先生の次のような色紙が保管されている。


ニイチェ曰く

南風よ起れ 北風よ来い 暴風よ渦巻け 我は敢然として其中を歩むのみ

形外曰く

南風は涼し 北風は寒し 暴風は恐ろし 我は只そんな事いって居るひまなし


  日本のような台風はないにせよ、ドイツでも暴風はありうるだろう。どんな風が来ようと怖くないぞ、自分はその中を突き進んでやるぞ、というのがニーチェ流でいかにも格好いい。一方、森田流は、素直に暴風は恐ろしいと認め、状況に応じてその時にできることをやっていくというものである。ニーチェの場合、自然の力に屈服せず人間の力で自然をねじ伏せようとする西洋的な考え方が根本にあるように思う。東洋的な考え方だと、人間は自然にはかなわないと認め、自然の力に逆らわずに、仙厓さんの「気に入らぬ風もあらふに柳哉」(89・895話)のように受け流したり、あるいは風雨が収まるまで待つ、ということになるだろう。さらに、暴風の時でもできることはいくらでもある、というのが森田流だ。状況に応じてその時々できることをやっていれば、「そんな事いって居るひまなし」なのである。不安や神経症症状という風、時には暴風への対処法も同様である。

2018年12月 1日 (土)

神経質礼賛 1571.平成最後のクリスマス会

 今日は病院クリスマス会の本番。院内のあちこちに「平成最後の森田クリスマスsp」と題するポスターが張られ、クリスマスらしい飾りがほどこされている。看護師さん・薬剤師さんたちもコスプレ衣装を用意してそれぞれの出し物の練習に余念がない。私の出番は最初である。「葉加瀬太郎の情熱大陸を弾きながら入場して下さい」と会の責任者の看護師さんからの要望があった。弾いたことのある曲だけれども、私が弾くとクラシック調になってしまってノリが悪い。毎日、MP3プレーヤーでお手本を聴いてリズムを頭に刻み込んでおいた。


 患者さんや職員さんの前での演奏だとは言え、やはり人前で弾くのは緊張する。しかし、緊張が緩むと大きなミスが出やすいので少し緊張する位がちょうどよい。最初の曲はクライスラー作曲のラ・ジターナ(ジプシーの女)という変化に富んだ曲である。次はヴィヴァルディ作曲「四季」から「冬」の第一楽章。伴奏には輸入盤のマイナスワンCDを使ったが、テンポが速くて、やはり危ない箇所では少々乱れてしまう。第二楽章はゆったりで気持ちよく弾く。さらにクリスマスにちなんだ曲としてチャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」から「花のワルツ」。その後で皆さんで唄ってもらう「冬の星座」「きよしこの夜」に合わせて弾く。再び私の演奏で「アメイジング・グレイス」、最後にシューベルト作曲「アヴェ・マリア」という流れだった。幸い大きな崩れはなく、まずまずの出来でホッとする。神経質に準備と練習をしておいた成果だ。


 しかし、その後がいけなかった。楽器を持って医局に戻り、楽器を拭いて机の上に置いたケースにしまった。やれやれ、今度は後の出し物を見に行こうと思ったら、院内のあちこちの閉鎖扉を開けるマスターキーがない!個人ロッカーのキーも一緒だから、そのままでは家にも帰れない。ポケットの中を何度も確かめ、楽器ケースの中も見たが見当たらない。廊下を通りかかった職員さんに頼んで会場に入れてもらい、さっき出た時に鍵を挿しっぱなしにしていなかったか見たがない。廊下に落としていないか見たがない。鍵探しに
20分ほどかかる。置くはずのない隣の机の上に置いていたのを「発見」。自分の机の上を楽器ケースが占有していたので、無意識にやってしまったのだろう。そして、まさかそんな所に置いたとは思わないので見落としていた。事なきを得たが醜態を晒してしまった。やはり、すっかり気が抜けたような時にトラブルは起こるものだ。

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