神経質礼賛 1580.いつも愉快でいるには
私たち神経質人間は概して、陽気に、はしゃぐことが苦手である。その分、ハメを外して失敗するとか、軽はずみな失言で人に不快な思いをさせるようなことは少ない、という長所にもなる。まあ、面白味が少ない人間だけれども、なるべく笑顔で挨拶することは長年心掛けているところだ。いつも気楽で楽しそうな人を見ていると、うらやましく思うこともあるが、森田正馬先生は次のように言っておられる。
さて、憂と楽と、雨と晴とは、自然の現象であるから、人為的にこれはなんとも致し方はない。しかるに強いてこれを、いつも気楽に、いつも天気にしようとするには、外界を無視して、主観的に工夫するよりほかにしかたがない。これに二通りの道がある。
その一は、眼を閉じて、一切の欲望を捨てる事、もしくは一年中、深く室内に閉じこもって、決して外に出ない事である。そうすれば、雨も風もどうでもよい。種々の宗教の苦行とか、六根清浄とかいうのは、この法であり、毎日、一心不乱に、南無阿弥陀仏の百万遍を唱えていてもよい。しかしこれも結局は、なかなか苦しく容易ならぬ事である。人生を忘却した邪道といわなければならぬ。
他の方法は、これと反対に、人生の欲望をますます発揮する事である。この欲望に乗り切ってしまえば、雨も風もものかは、裸でも飛び出すのである。憂鬱も楽天もともに超越して、ともかくも毎日の心持を引き立たせるものである。
ただしこの両方法は、いずれも両極端であり、不自然で無理であるから、人生の真の道という事はできない。
要するに、人生は、苦は苦であり楽は楽である。「柳は緑、花は紅」である。その「あるがまま」にあり、「自然に服従し、境遇に柔順である」のが真の道である。毎日の心持を引き立たせる最も安楽な道である。憂鬱や絶望を面白くし、雨を晴天にし、柳を紅にしようとするのが、不可能の努力であって、世の中に、これ以上の苦痛な事はない。人生は腹がへれば食べたく、腹がはれば食べたくない。いつも食べたく、美味でありたいというのが、思想の迷妄であり、哲学・宗教の邪道であるのである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.188)
一見、気楽そうに見える人でも「唯見れば何の苦もなき水鳥の足にひまなきものと知らずや」なのであって、実はいろいろと苦労し心配事も抱えながら努力して生きているのかもしれない。誰にとっても苦は苦であり楽は楽である。結局、あるがままに、神経質の特性を生かして行動していくのがベストなのである。
本年もお読みいただきありがとうございます。当ブログは14年目に突入します。
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