神経質礼賛 1601.当て事と、越中褌(ふんどし)とは、前からはずれる
森田正馬先生が形外会の場で話した内容はとてもわかりやすいが、時代の変化のため、現在の私たちには例え話が理解しにくいことがある。一例として「当て事と越中褌は先から(向こうから)外れる」というものがある。現代人で褌を身に着けることは、祭典の参加者や職業力士以外にはありえないだろう。明治大正期は男性の下着として普通であり、兵士に軍から支給もされていたようだ。第二次世界大戦後は急速に日常生活から消えて行った。私も褌を身に着けたことはないから、どのように着用してどのように外れるのかわからないけれども、当時の人々にとっては経験的にとてもわかりやすい諺だったのだろう。あてにしていたことは、相手の都合ではずれてしまうことが多い、という例えである。しかし、この諺がなくてもよくわかる話なので御紹介しておこう。
我々の日常生活は、僕が精神の拮抗作用と名付けてあるように、心は常に、見るか・見ないか、逃げるか・逃げないか、机の上を片付けるか・片付けないかという風に、必ず反対の心が、闘っているものである。この闘いを煩悶とか・強迫観念とかいうのである。神経質は、これを完全に解決し、徹底的に決めようとするから、そこにますます煩悶苦悩が絶えないのである。
我々の日常生活は、すべて仮定である。仮定という事は、同時に諸行無常という事です。どっちか一方に、必ず決めようとしても、世の中は、決して思う通りにできるものではない。「当て事と、越中褌とは、前からはずれる」といって、いくら自分で、都合のよいように決めても、周囲の事情で、どう変化してくるかわからない。何も絶体絶命とかいうような頑張りの心はいらない。この心の葛藤が起これば、仮に、どちらか、一方に決めてみる。すると、都合のよい時は、じきに解決案が浮かび出てくるし、都合の悪い時には、心はいつの間にか、他の事に流転して、前の執着から離れるという風である。こんな事は、皆さんの自己内省により、自覚を深く進めて、容易に知る事のできるものである。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.423)
神経質人間はあらかじめ計画を立てるのが得意である。そして、それに大きなエネルギーを費やしがちである。そして、決まったように事が進まないと面白くない。しかし、周囲の状況から思ったように行かないことが多く、そこで投げ出して計画倒れに終わってしまうこともある。流れを見ながら臨機応変に決めて行動していくことも必要なのである。
« 神経質礼賛 1600.日常生活の時間 | トップページ | 神経質礼賛 1602.春は毒出し時? »
コメント