神経質礼賛 1610.医者の選び方
前々話では、不安神経症の人の奥さんが、メンタルクリニックの医師を不安視していたことを書いた。医師も人間だから個性があり、特に精神科の場合は「相性」の良し悪しが多少は出てしまうのはやむを得ないところだ。
ちなみに森田正馬先生は「医者の選び方」ということで次のように書いておられる。
医者の選び方について、その大切な一つの見方は、「自分で知らぬ事を知らぬと言い得る医者」は、之に自分の病に関する事を一切打ち任せて。差支えのない医者である。
それは、其医者が、「自分が知らぬ・思いがけない事のために、患者に取返しのつかぬ事がありはせぬか」という小心翼翼の思いやりがあるからである。この様な医者は、自分で腑に落ちぬ事は、必ず他の医者を選んで、相談してくれる。
之に反して、「知らぬ事を知らぬと言いえぬ医者」は、華客(とくい)の信用を気にする開業医者、或いは博士の肩書に対する威信のために虚勢を張るもの等、医者商売の損害を恐るる医者の事である。
一方には、患者の側でも、思慮浅薄で、狡猾なものは、医者の誠実を見抜きて之に敬意を払うことが出来ず、不良の医者の口先に乗せられ、且つ一方には、自分で医者を釣らんとさえもしている事がある。ちょうど露店商売の取引のようなものでもあろうか。(白揚社:森田正馬全集 第7巻p.469)
森田先生の時代、神経症は「神経衰弱」と呼ばれ、不治の病とも恐れられていた。今の医学から見たら全く意味のない薬を処方されたり注射されたりということが「名医」たちによって行われていたのである。大胆な医者は、かえって患者に害をなすこともあり、小心翼々の神経質な医者が実は良い医者なのだ。最後の部分は現代にも言える面がある。TV番組やネット情報で知ったその人には適さない薬の処方をむやみに求める人、必要ない状態なのに障害年金の診断書を求める人がいて、それに簡単に応じるばかりでなくそれを患者さんに持ちかけるクリニックも稀にあったりする。「悪貨は良貨を駆逐する」にならないよう、見極める目が必要だ。
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