神経質礼賛 1630.周囲に適応する
私自身、対人恐怖に悩んだ若い頃は、集団での行動は苦手であり、特にバカバカしいと思うと避けてしまう傾向が強かった。だから、集団の中では浮いた存在になりがちだった。その傾向は今でも多少はあるが、仕方なしにその環境に身を置き、周囲を観察しながら行動するようになっている。森田正馬先生の診療所に入院していた人たちには対人恐怖・赤面恐怖の人が多かったから、同様の人が多かったのだろう。森田先生は次のように言っておられる。
ここに入院している人は、初めのうちは、どうしても修養という事にとらわれる。金物屋に行っても、少し待つ間があれば、雑誌などを読んでいる。僕はそんな時には、常に丁度展覧会を見るように、何か面白い有効のものはありはせぬかと、陳列の品物を見回しているのである。
ひどいのになると、入院中の人で、熱海形外会の時に、十国峠へドライブした時に、自動車の中で本を読んでいたのがあった。景色を眺め道中を楽しむという事とは無関係である。少し注意して、世の中の人を見ると、学者とか・修道者とかいう人は、凡人と違った偏人であって、時と場合における周囲の状況に適応しないで、ただ自分自身の鋳型にはまっているのが多いのである。
「そういう風でなくては、偉い人になれない」という風に考えている人が、世の中には多いようだけれども、僕は決してそうとは思わないのである。周囲に適応するような人が、よく独創的で・適切な問題を発見して、新機軸を立てるのではないかと考える。(白揚社:森田正馬全集第5巻p.680)
神経質人間は性格が堅いと言われやすい。真面目だけれども柔軟性に乏しいきらいがある。「ただ自分自身の鋳型にはまっている」というのは、いわば心にガチガチの鎧をまとっているようなものだ。自分の心の平安を守るのには役立つが、人との交流ができにくいし、その場に適した行動が取れず、損をすることも多い。こういうことは学校教育では教えてくれない。森田療法では、周囲に気を配って行動していくうちに、自然と柔軟さが身につき、神経質の良さが発揮できるようになってくるのである。
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