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2019年5月 2日 (木)

神経質礼賛 1622.思い切るにも二通り

 令和新時代が始まった。新年は毎年やってくるけれども、新しい元号に遭遇するのはめったにないことである。この際だから、今までできなかったことに思い切って挑戦してみようか、という方もいるかもしれない。思い切ってやる、ということに関して森田先生は次のように言っておられる。

 思い切ってやるという事にも、二通りある。一つは能動的に、自分から勇気をつけてやる。空元気の付け焼刃であるから、する事が不自然になる。しかしその事柄によって、例えばお悔やみに行くようなことならば、それは誰にでもできる事であるから「案ずるより生むがやすい」といって喜ぶ事になる。これに反して、人と取り引き・談判とかいう事になると、空元気のしくじりが多くなって、大いに悲観して、ますます引込主義になる事が多い。
 第二の場合は、受動的に、やむを得ずやる。すなわち背水の陣である。この時は付け焼刃でないから、自分は弱いものと覚悟して、自然であるから、談判にも擬勢がなくて、勝たなくとも、少なくとも負けはしない。この場合には、勝てば喜び、負けても、当然の事として、がっかりするような事はない。
 第一の場合は、赤面恐怖患者が、よく「人前に出る稽古をすればよいか」など質問する心持で、第二の場合は、いかなる境遇にも、ことさら逃げないで、当たって砕けるという態度になる心境である。ちょっと思い違えると、区別のできないような、わずかな相違であるのである。この第一が軽快、第二が根治である。(白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.283)

 外来には神経症の症状のために行動ができないという人がよくいる。視線恐怖だとかパニック発作を恐れてとかで一人では家から出られずひきこもる人、会食恐怖のため友人と飲食店に行けない人、強迫観念のためにゴミが捨てられない人、確認のために家事が進まない人・・・。状況は実に様々だけれども、「できないのではなくやらないだけ」という点は共通している。誰もが普通にやっていることなのだからできないはずはない。やればできるのだ。いろいろなことが気にはなってもそれはそのままにしておこう。この際、令和になったのだから、という理由づけでもいい。森田先生が言われた「第一の場合」になってもよい。とにかくダメでもともと、というつもりで思い切って恐怖突入(212話)してほしい。頭で考えているだけでは1cmも前へ進まない。理屈は横に置いておいて行動すれば必ず道は開ける。

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