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2019年6月20日 (木)

神経質礼賛 1637.鼻尖恐怖

 現代ではあまり聞かなくなったが、かつては鼻尖恐怖に悩む人が少なくなかった。自分の鼻が視界に入って気になり、仕事や勉強に集中できないというというものである。バカバカしいと思うかもしれないが、誰でも自分の視野に鼻は見える。これを気にし出すと、苦痛になるのである。森田正馬先生のもとに相談してきた32歳の海軍軍医大尉に対して、先生は次のようにアドバイスしている。

 僕の著書の内にある・鼻尖恐怖の例を御覧になつたでせう。鼻の尖が見へて、勉強の邪魔になる。余計なものが見へる。普通の人には、こんなものは氣にならないであらうと思ふと、腹立たしく・苦しくなり・氣も狂いさうになるといふのである。人並でない・余計な事と考へるのが、其苦しみの出発点であり・考へ方の間違いひの本であります。鼻の先の見へない人は、世の中に一人もない。只普通の人は、素直に見へるまゝに・仕方なしに勉強して居る。素直に当然の事として居るから、少しも氣にならない・見へないと同様である。即ち普通の人と、神経質との相違は、素直に受入れるのと、こんな事は、つまらぬ事だと反抗して・之を否定しやうとする心との違ひであります。
 之と同じやうに、貴方も、人が鼻が見へるまゝに、勉強するやうに、字の開きが氣になるまゝに、勉強して行けばよいのであります。 
それで、本を読むのを急ぐ時には、其いやな感じを耐(こら)へながら読み、閑な時には、シャボテンの好きな人が、其格好を研究するやうなものです。一つの芸術的趣味であります。
(白揚社:森田正馬全集第4巻 p.43-44)

 視野が正常な人ならば誰でも自分の鼻は見える。これを見えないようにしようというのは不可能の努力であり、ますます深みにはまってしまう。しかし、日常生活でやるべきことをやっていれば、自然と気にならなくなっていくのである。鼻尖恐怖に限らず強迫観念全般、同様なのである。何とかしようと思えば思うほど深みにはまりこむ。気にはなっても、仕方なしにやるべきことをやっていれば、いつしか症状は忘れている。

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