神経質礼賛 1662.言おうか言うまいか
私の中学時代の通信簿にはいつも「発表が少ない」と書かれていた。国立大学の附属中だったためか、教師はあまり発言せず生徒たちに長時間討論させて授業していくというスタイルが多かったから、私は出来の悪い生徒だと思われていた。人前で発表するのは緊張しやすいから避けていたという面もあったろうけれども、教科書に書いてあるようなことをあたかも自分が考えたかのように発表するのはわざとらしくて嫌だという気持ちが強かったからである。そして、自分なりに良い考えが浮かんだ時にも、これは言いたいけれどもこんなことを言ったらどう思われるだろうかと深読みして、言おうかどうしようか迷っているうちに発言する機会を逸してしまうこともあった。形外会の記録を読んでいると、私と同様、言おうか言うまいかためらっているうちに言うべき機会を失してしまう、という人の発言があり、それに対して森田先生は次のように言っておられる。
いおうか・いうまいかと迷う事についても、種々の度合がある。気の軽い人は、いいたい事があれば、心のなんの拮抗作用もなくて、そのままベラベラしゃべってしまう。にぎやかでよいけれども、むだ言が多くて、うるさくてしかたがない。
意志薄弱性のものは、恥ずかしくて自分でいわない事に決めているから、心に少しも葛藤はなく気楽である。
神経質は、いいたくてたまらないで、しかも大事をとるから、心の葛藤が非常に強い。これが一歩間違えれば、いおうか・いうまいかの・ただ二道の・堂々めぐりの迷いになるが、これが一転して、よく場合を考え、適切な文句を工夫するという風になれば、上等になる。
ともかくも心の葛藤の大きいほど偉い人です。そして確かな思想があって、しかもペラペラしゃべらないでいる時に、「沈黙は大なる雄弁なり」という事にもなる。しかし、単になんの思想もなくて平気で黙っている場合、それが立派な堂々としたかっぷくの男である時に、「沈黙の雄弁」と間違えられる事がある。 (白揚社:森田正馬全集 第5巻 p.744)
まさに自分の心の中をピタリと言い当てられた感がする。実は今でも、言おうか言うまいか迷って機会を逃すことはある。特に学会のように改まった場ではそうだ。半世紀経ってもあまり進歩していないなあ、と反省する。
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